津藩主時代
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文化3年(1806年)2月24日、津藩主高嶷の嫡孫・高巽(高兌の兄高崧の子)が早世した。次いで、同年8月26日、父である津藩主高嶷が死去した。そのため、同年10月12日、久居藩主であった高兌が本家を継いだ。久居藩主は高兌の弟である高邁が継いだ。久居藩主から津藩主への転任は、上述の通り藩政に混乱をきたすほど常態化しており、父・高嶷に続いて高兌も新たな一人となった。同年12月16日、従四位下に昇進し、和泉守に改めた。文化5年12月16日(1809年)、侍従に任官した。 高嶷の津藩主時代にも、財政再建を主とした藩政改革が行われていた。金融政策・殖産興業・土地制度改革がそれである。ところが金融政策において借金の棒引きを強行し、土地制度においても均田制を目指した結果、それまで地主であった者たちから反発を受けたため、藩政改革は挫折した。このため、高嶷の評判は藩内で非常に悪かった。そのような中で跡を継いだ高兌に対しては、その政治手腕に期待する者も多かったが、同時に反発する者も少なくなかった。 そのため高兌はまず、藩内における支持を得るため、綿服を常に着て、質素倹約を自ら率先して行なった。自らの生活費などの出費を切り詰め貯金し、10年後には1000両以上の貯金を築き上げたとまで言われている。このため、高兌に反発していた家臣もその政策を支持せざるを得なくなり、倹約にも努めたと言われている。 高兌は津藩の藩政改革には久居藩と同じく、法令の整備や行政機構の改善、藩校・有造館の創設などを手始めに行なった。久居から藩主を迎えるのが常態化し、安定した家督相続が行われない状況下で、津藩でも藩政が不安定化で財政が窮乏化していたのである。財政再建のため、灌漑用水の整備や産業の育成などにも努めている。さらにこの頃、津藩では綱紀が緩んで不正が相次いでおり、領民も苦しんでいたが、高兌はこれを解決するために勧農方という制度をつくり、新しい役職を設置した。これは、高兌の信任における者が就任し、定期的に領内を巡察し、民情を自分に報告させ、農政指導にも当たらせるというものであった。高兌も折を見ては自ら領内を巡察したと言われている。また、灌漑用水などの治水工事にも大きな成功を収め、これによって領民の生活は再建されたという。これに感謝した65の村の領民が年貢でもないのに、藩主に対して240俵を献上したと言われている。 高兌は政治手腕にも優れていたが、教養人・文化人としても優れていた。津藩は大藩であるにもかかわらず、それまで藩校がなく、有造館が創設されたのは高兌の時代のことである。高兌は有能な人材を求めて、有造館の他に崇広堂、善正寮、有恒寮などを創設し、藩士の子弟はもちろんのこと、領民にも教育の奨励を促した。この藩校創設のとき、高兌は津阪東陽を登用して、国学や兵法、武術、洋学、医学、西洋数学を取り入れたのである。教育普及と進んだ教育の取り入れには、東陽の手腕と高兌の学問好きが一因していたとも言える。このように、高兌の藩政改革は財政再建、人心収攬、教育制度確立、藩政の安定化など、いずれも成功を収めた。
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