津藩主時代とは? わかりやすく解説

津藩主時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 22:00 UTC 版)

藤堂高兌」の記事における「津藩主時代」の解説

文化3年1806年2月24日津藩主高嶷の嫡孫・高巽(高兌の兄高崧の子)が早世した。次いで同年8月26日、父である津藩主高嶷が死去した。そのため、同年10月12日久居藩であった高兌が本家継いだ久居藩主は高兌の弟である高邁継いだ久居藩主から津藩主への転任は、上述通り藩政混乱をきたすほど常態化しており、父・高嶷に続いて高兌も新たな一人となった同年12月16日従四位下に昇進し和泉守改めた文化5年12月16日1809年)、侍従任官した。 高嶷の津藩主時代にも、財政再建を主とした藩政改革が行われていた。金融政策殖産興業土地制度改革がそれである。ところが金融政策において借金棒引き強行し土地制度においても均田制目指し結果それまで地主であったたちから反発受けたため、藩政改革挫折したこのため、高嶷の評判は藩内で非常に悪かったそのような中で跡を継いだ高兌に対しては、その政治手腕期待する者も多かったが、同時に反発する者も少なくなかった。 そのため高兌はまず、藩内における支持を得るため、綿服を常に着て質素倹約を自ら率先して行なった。自らの生活費などの出費切り詰め貯金し10年後には1000両以上の貯金築き上げたとまで言われている。このため、高兌に反発していた家臣もその政策支持せざるを得なくなり倹約にも努めたと言われている。 高兌は津藩藩政改革には久居藩同じく法令整備や行機構改善藩校・有造館の創設などを手始め行なった久居から藩主迎えるのが常態化し、安定した家督相続が行われない状況下で、津藩でも藩政不安定化財政窮乏化していたのである財政再建のため、灌漑用水整備産業育成などにも努めている。さらにこの頃津藩では綱紀緩んで不正が相次いでおり、領民苦しんでいたが、高兌はこれを解決するために勧農方という制度をつくり、新し役職設置した。これは、高兌の信任における者が就任し定期的に領内巡察し、民情自分報告させ、農政指導にも当たらせるというものであった。高兌も折を見ては自ら領内巡察したと言われている。また、灌漑用水などの治水工事にも大きな成功収め、これによって領民の生活は再建されたという。これに感謝した65領民年貢でもないのに、藩主に対して240俵を献上したと言われている。 高兌は政治手腕にも優れていたが、教養人文化人としても優れていた。津藩大藩であるにもかかわらずそれまで藩校がなく、有造館が創設されたのは高兌の時代のことである。高兌は有能な人材求めて、有造館の他に崇広堂善正寮、有恒寮などを創設し藩士の子弟はもちろんのこと領民にも教育奨励促した。この藩校創設のとき、高兌は津阪東陽登用して国学兵法武術洋学医学西洋数学取り入れたのである教育普及進んだ教育取り入れには、東陽の手腕と高兌の学問好きが一因していたとも言えるこのように、高兌の藩政改革財政再建人心収攬教育制度確立藩政安定化など、いずれも成功収めた

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