池田成彬 いけだ しげあき
山形生まれ。実業家、財政家。父は米沢藩士。慶応義塾に学び、明治28年(1895)ハーバード大学を卒業。帰国後、時事新報社を経て、三井銀行に入る。大正8年(1919)以降は筆頭常務として同行を金融業界の首位へと押し上げた。昭和8年(1932)団琢磨暗殺後、三井合名常務理事となり、持ち株公開・定年制などの三井財閥の改革を実施した。12年(1937)日本銀行総裁、13年(1938)に第1次近衛内閣の蔵相兼商工相、16年(1941)に枢密院顧問官となる。
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池田 成彬 (いけだ せいひん)
氏 名: 就 任: 退 任: 出身県: | 池田 成彬 (いけだ せいひん) 昭和12. 2. 9 昭和12. 7.27 山形県 |
14代目の日本銀行総裁である池田成彬は、慶応3年に米沢藩士の長男として山形県に生まれました。慶応義塾大学在学中にハーバード大学に留学し、帰国後は時事新報社の論説委員を経て、三井銀行に入行しました。同行では、営業部長在任中にコール資金の活用により日本銀行貸出への過度の依存を改めるなど経営基盤の強化に取り組み、大正8年以降は事実上の同行トップである筆頭常務取締役として辣腕をふるいました。 昭和12年、日本銀行総裁に就任しましたが、金融面でも戦時色が強まる中で、産業金融に踏み込まざるを得ませんでした。他方、組織面では、それまで諮問機関であった参与制度を廃止して議決権を持った参与理事制度を創設し金融政策を外部からチェックする仕組みを導入したほか、人事部を新設するなど、矢継ぎ早に経営改革を実施したことが知られています。 病のため在任僅か5ヵ月で辞任しましたが、さらに大蔵大臣兼商工大臣、枢密顧問官などを歴任し、昭和25年、84歳で亡くなりました。 (出典:広報誌『にちぎんクオータリー(1999年秋季号)』) |
池田成彬
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池田 成彬(いけだ しげあき、慶応3年7月16日〈1867年8月15日〉 - 昭和25年〈1950年〉10月9日)は、日本の政治家、実業家。
- ^ 身辺は質素で、「成彬」(せいひん)ではなく「清貧」とも呼ばれ
- ^ 『明治のランプ』 1939年7月号
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 84頁。
- ^ 『三井銀行100年のあゆみ』 日本経営史研究所 337P
- ^ 重役含め定年制の実施を発表『東京日日新聞』昭和11年4月18日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p700-701 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 「複雑微妙な経緯 極秘に進められた筋書 米内大将に大命降下まで」大阪朝日新聞 1940.1.15 (昭和15)
- ^ 『海軍国防思想史』 石川泰志 原書房 1995年 P545
- ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 『朝日新聞』 1950年10月10日
- ^ a b c d e 「池田成彬」 アジア歴史資料センター Ref.A06051182400
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 人事興信録 第15版 上
- ^ 飛田穂洲 『球道半世記』 博友社、1951年、215頁
- ^ 竹中平蔵 『経済古典は役に立つ』 光文社〈光文社新書〉、2010年、160頁。
- ^ 池田成彬『私の人生観』 文藝春秋新社、1951年、297頁
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