永世皇族制と旧皇族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:35 UTC 版)
詳細は「永世皇族制」を参照 1889年(明治22年)2月11日制定の皇室典範(いわゆる旧皇室典範)には臣籍降下の規定が無く、永世皇族制を原則としていた。しかし、1907年(明治40年)の皇室典範増補で早くも例外が設けられ、臣籍降下が可能となった。しかし、その後、王の臣籍降下は北白川宮家の輝久王(臣籍降下して小松侯爵家を創設)の1例のみにとどまった。 1913年(大正2年)、有栖川宮威仁親王が薨去して有栖川宮家が断絶したため、宮家は全て伏見宮邦家親王の子孫のみ(本項に述べる「旧皇族」の親族のみ)で構成されるようになった。 また、皇位継承者の皇太子嘉仁親王(大正天皇)は、4人の皇男子に恵まれた。1920年(大正9年)5月19日に制定された内規「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」により、臣籍降下の推進はさらに徹底されることになった。この準則は、皇玄孫以降の子孫たちが順次臣籍降下してゆく基準を具体的に定めるものであった。 同準則第1条には 皇玄孫ノ子孫タル王明治40年2月11日勅定ノ皇室典範増補第1条及ヒ皇族身位令第25条ノ規定ニヨリ情願ヲ為ササルトキハ長子孫ノ系統4世以内ヲ除クノ外勅旨ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列ス(註:皇玄孫の子孫たる王、明治40年2月11日勅定の皇室典範増補第1条及び皇族身位令第25条の規定により請願を為さざるときは、長子孫の系統4世以内を除くの外、勅旨に依り家名を賜い華族に列す) とあった。すなわち皇玄孫(4世王)以降、系統四世(5~8世)以内の長子孫以外は、賜姓降下(臣籍降下)させられることが明記された。ただし、附則により、制定時現在の宮家の構成員については「邦家親王の子を1世」として起算することとされた。むろん、皇族を勅旨によって強制的に臣籍降下させることを原則とするこのような規定には異論もあり、裁定にあたって準則の諮詢を受けた枢密院での審議でも、一律・機械的に適用するのではなく個別の事情に応じて判断する旨の説明がなされている。 枢密院はこれを受けて満場一致で準則を可決した。次いで諮詢を受けた1920年(大正9年)5月15日の皇族会議では、久邇宮邦彦王らから反発の声が挙がった。そこで宮内省側は、皇族会議令第9条の規定を利用して採決を行わず、議長であった伏見宮貞愛親王の判断のみで皇族会議を通過させ、5月19日に大正天皇の裁定によって成立することとなった。 準則が制定されてから1946年(昭和21年)に廃止されるまでの26年間に、12名の皇族の臣籍降下があった。いずれも皇室典範増補第1条に基づく「情願による賜姓降下」であり、準則の適用を受けて降下させられた事例はひとつもない。しかし、情願をしなくとも降下させられる上、皇室典範により養子制度は認められていないことから、不名誉を避けるためには「自らの意思」として情願をせざるを得ない状況に置かれていた。準則の規定に反して例外がつくられたケースはひとつもない。
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