歴代の宗主権問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 21:26 UTC 版)
「ハンブルク攻囲戦 (1686年)」の記事における「歴代の宗主権問題」の解説
ハンブルクはハンザ同盟に加盟していたが、当初は自由都市でも、帝国自由都市でもなかった。1510年の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世によるハンブルクの自由都市への昇格や、1618年の帝国最高法院(ドイツ語版)によるその確認を、デンマーク王は認めて来なかった。デンマークから見れば、ハンブルクは正式にホルシュタイン公領に属しており、ホルシュタイン公でもあるデンマーク国王は引き続き臣下たるハンブルクに臣従儀礼を取るよう求めていたのである。ついには非常に穏やかな形ではあるが、すでに1603年、デンマーク国王クリスチャン4世とシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公ヨハン・アドルフに対し臣従の礼が捧げられていた。軍事力をもってハンブルクを屈服させようとする、デンマークの後の試みは1616年、1629年及び1630年から1643年にかけて失敗した。1643年の最初の攻囲戦に続く、表面的で熱意を欠く臣従の誓いと賠償金の支払いは、このハンザ都市に対する実効的な宗主権がデンマークにあることを意味しなかった。早くも2年後、ハンブルクはスウェーデンの助けを借りて再び独立したのである。 1650年から1651年にかけてデンマーク王家と、その傍流であり、ホルシュタイン公領を支配していたシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公家の双方が、ハンブルクに対し1回限りの貢納金の支払いによる、臣従の義務の最終的な解消を初めて申し出た。1652年までは実際にその交渉が行われたが、三十年戦争の損害を経て節制に努めていたハンブルクは、この解決策を断った。 しかしデンマークの干渉は、ハンブルクがその要塞施設を強化する原因となる。1626年までに、21基の稜堡と最高9メートルの防壁を伴う城壁が建設された。また、1679年にデンマークが攻囲戦を挑むと1682年にはシュテルンシャンツェ(星形堡塁)(英語版)が築かれる。新たな警備体制は新しい民兵連隊や、同中隊の創設に繋がり、17世紀には80,000人から100,000人の人口に対して最大11,000名の市民が武装していたのである。これに俸給を受け取る職業軍人の兵団も加わった。他方、デンマークは1616年、下エルベ(英語版)のグリュックシュタット(ドイツ語版)に税関を建設し、ハンブルクのすぐ隣りにある、ホルシュタイン公領のアルトナを競合都市へと拡張していた。
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