森田療法における病態把握と治療像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 15:21 UTC 版)
「森田療法」の記事における「森田療法における病態把握と治療像」の解説
森田療法における治療アプローチは、強迫性障害などの神経症について、ヒポコンドリー性基調という性格的特徴が背景にあるとの病態把握が前提となっている。 ヒポコンドリー性基調は、心の中に生じる不安や緊張などの思考・感情などを過度に気にする性格傾向を指す。そのような基調を有する人は、そういった不安や緊張などを「あってはならないもの」として自力で取り除こうとしてしまうが、そのような意識的コントロールの試みで不安や緊張などが取り除かれることは通常なく、むしろ、注意・意識が向いてしまうことで、不安や緊張などがかえって強まり、これをまた意識的にコントールしようとして、更に不安や緊張などが強まっていく、という悪循環(=精神交互作用)が生じる。 森田正馬は、このような悪循環こそ神経症の本態であると分析した上で、この悪循環を脱する方法として、自身の思考・感情などをコントロールしようとして一喜一憂する姿勢(気分本位)を戒め、そういった思考・感情などは自然に湧くまま(=あるがまま)で良く、むしろ、自然に湧いてくる思考・感情などはどうあれ、自分がやるべき外的行動を積み重ねることに関心を向ける姿勢(事実本位・目的本位)を重視する。このような意識・姿勢の転換を治療法として体系立てたのが森田療法であり、「外装が整えば 内装自ずから熟す」という言葉は、意識的にコントロールしようとしても何ともできなかった(内的な)不安や緊張などが、外的行動に関心・意識がシフトしていくに伴って、自然と緩和されていく森田療法の治療過程を端的に描写したものである。 森田療法では、このような治療の要点を表すものとして、「あるがまま」という言葉をしばしば用いる。しかし、森田療法における病態把握・アプローチを理解しないまま、「あるがまま」「外装が整えば 内装自ずから熟す」などの言葉やイメージが表面的な形で一人歩きすると、森田療法の誤解や誤ったメッセージにつながりかねないため注意が必要である。また、このような森田療法の病像把握や治療法・治療過程は、自らの内にある負の感情や欲望などをあるがまま受け止めようとする親鸞や道元・禅宗など大乗仏教の思想と親和的であるとも指摘される。 このような森田療法のアプローチは、神経症を「病理」というよりも「自然な感情」(の悪循環)とする見方、更に、不安や「死」の恐怖の裏には「生」の欲望があるという人間像を内包する。また、このような神経症像を数式的に表現するものとして、森田正馬は、病(神経症)=素質(ヒポコンドリー性基調)×機会×病因(精神交互作用)と考えた。 なお、以上のような森田療法における病態把握と治療像を反映するものとして、森田正馬は、神経症を「病的気質」「病ではない」などと表現しており、また、自身の療法を「神経質療法」「神経質の特殊療法」「自覚療法」「自然療法」「体験療法」「体得療法」「訓練療法」「鍛錬療法」などと呼び、更には、「療法」という言葉さえ使わず、「修養」「教育」「訓練」「しつけ」などの言葉を使うことも良くあった。
※この「森田療法における病態把握と治療像」の解説は、「森田療法」の解説の一部です。
「森田療法における病態把握と治療像」を含む「森田療法」の記事については、「森田療法」の概要を参照ください。
- 森田療法における病態把握と治療像のページへのリンク