格闘技評論家
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中日映画社で短編映画・CMプロデューサーを経て、東京新聞の子会社でフリーペーパーを発行する東京新聞ショッパー社に勤務する傍ら、1980年から5年間、格闘技ライターとしてデイリースポーツ紙にレポートを執筆してきた。デイリースポーツ東京本社編集局長の近藤敬は「前向きで研究熱心。中身の濃いレポートの数々により、山崎教の信者は日増しに増えた」と語る。中日スポーツでも“コラム 撃戦記”を連載し、幅広い人気を誇っている。東京新聞ショッパー社大宮支社長・役員などを歴任して、2003年4月から北海道ワインの顧問に就任した。デイリースポーツの仲介で、全日本女子プロレスの新人や若手選手が合宿を行った際に臨時コーチとして指導したことがあり、一時期クラッシュギャルズの師匠として紹介されたこともある。 選手権大会から身を引いても、仕事に支障きたさない程度で極真会館本部道場で自主稽古を続け、合間に中村誠を指導したりしていた。取引先との挨拶時に名刺を出すと皆が「空手道を教えて欲しい。道場をやってくれ」と異口同音に言い出してきた。大山倍達に事情を話し了承を得て、1977年に極真会館の支部としてではなく、大宮に道場を構え、極真と謳えないかわりに、故郷の英雄・武田信玄の軍旗に記された風林火山を道着と帯に名をつけ、募集も特にしないで空手の指導を始めた。この道場には一時期、本部道場所属の川畑幸一・前田政利・毛塚慎一 ら、一部の門下生が出稽古に来ていた。松井章圭も初出場となる第12回オープントーナメント全日本空手道選手権大会の前に山崎の指導を受けていた。山崎も本部道場で実施される黒帯研究会 に顔を出して、何かと松井のことを気にかけるようにしていた。中村はその場で山崎から「ちょっと松井と組手してくれないか」と言われて松井に胸を貸し、山崎が「松井に目を掛けて個人指導していた」と証言している。 記者が本業である山崎は空手で生活の糧を稼ぐのではなく、場所代など経費の都合上から月謝は発生していても、自身はあくまでもボランティアとして、近所の子供たちと山崎を慕ってくる人たちに、自らが大山倍達という偉大な師から受け継いだ空手を教え続けている。1995年に風林火山から、NPO団体国際武道空手連盟 逆真会館と正式に一流派として発足したが、運営形態は変わっていない。2011年8月、これまでの形態から今後は指導者のみを教える空手研究会に替えた。
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