核兵器使用に関する議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 21:17 UTC 版)
開戦当時、アメリカ政府は中華民国当局に対し「金門及び馬祖は米華相互防衛条約の防衛義務範囲に含まれない」として大陳島撤退作戦の時と同様に金門の放棄を要求したが、蔣介石総統はこの要求を拒絶している。さらに中華民国軍が戦闘を優位に運んだことから、アメリカは事態の打開のために、中華民国軍に対しさらなる武器供与を実施した。 モートン・ハルペリンが1966年にまとめた文書によると、当時の統合参謀本部議長であるネーサン・ファラガット・トワイニング空軍大将は、アモイ周辺のいくつかの空軍基地を10~15キロトンの小型核爆弾で攻撃し、それでも侵攻を阻止できなければ上海など中華人民共和国北部まで核攻撃する以外に選択肢はないと主張していた。 その場合、ほぼ確実に中華人民共和国からは台湾、さらに場合によっては当時アメリカ占領下の沖縄やグアムへ核報復攻撃が行われる可能性があると、統合参謀本部内では分析していたという。 このような動きを察知したソ連のニキータ・フルシチョフ書記長は、当時関係が悪化しつつあったにもかかわらず、中華人民共和国に対して「米ソ間の核攻撃を触発しないように」と警告を発した。なおソ連は中華人民共和国の建国以来、上記のミグ戦闘機をはじめとする様々な兵器を中華人民共和国に供与していた他、核兵器開発のための技術供与なども行っていたものの、1956年に行われたフルシチョフのスターリン批判以降両国の関係が悪化していたこともあり、特に武器供与は行わなかった。この金門島の戦闘により、フルシチョフは冒険主義的な行動をとる中華人民共和国の核保有は核戦争を誘発すると認識し、核兵器開発のための技術供与を打ち切った。 また、上記のようにハルペリンによるとアメリカ軍内では核攻撃の声が高まったが、核兵器の使用が当時の計画に含まれたことはなく、アイゼンハワー大統領は通常兵器の使用しか認めなかった。また沖縄にはB-52が、グアムには当時核兵器搭載のボーイングB-47爆撃機中隊15機が待機していたが、当時のドワイト・D・アイゼンハワー大統領がこの利用を承認しなかったことがアメリカ国防総省の機密文書より2008年にわかっている。
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