校舎建築が始まる
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「松本市立波田中学校」の記事における「校舎建築が始まる」の解説
1948年に、波田小学校の東南側(現在は松本市役所波田支所がある場所)にあった長野県東筑摩西部農学校が長野県東筑摩西部農業高等学校に改組されていた。それが、1949年に長野県梓農業高等学校と統合されて組合立長野県梓川高等学校(1952年に県立移管)となり、当初は波田小学校近くにあった梓川高校が1950年度に現在地に校舎を新築し、51年の新学期を期して移転した。そのため校舎つきの跡地ができた。50年3月下旬からは、波田中の職員室などと3年生が、この元西部農学校校舎を使うようになった。しかし、波田小との同居も続いていたので、国道を横断して両校舎を移動する状態だった。中学校の建設地として3か所の候補があった。最初に候補にあがったのは、小学校東側であった。ここにはもともと村有地ながら貸与されてブドウ園が作られていた。48年4月に返還を受けて、49年に生徒や村民の労働奉仕により、ブドウの移植や運動場としての地ならしを行った。しかし、この場所は約8600平方メートルしかなく狭隘にすぎることから、候補地からはずれた(その後も長く活用されなかった。現在では社会体育館の敷地になっている)。もう1つの候補地は西部農学校跡地であり、残りが現在地(村有地であった)である。西部農学校跡地には現在では松本市役所波田支所および公民館がある。しかし、西部農学校跡地も約1万平方メートルで、十分な広さがなかった。そのため、51年1月から6月にかけては、現在地が候補とされていた。しかし、51年9月の公聴会では西部農学校跡地に建設し、活用できる既存建物はそのまま使うことが提案された。このため、52年4月3日のPTA緊急評議員会で校長が敷地を西側の土地(現在地)にして欲しい旨を訴え、4月9日にはPTAが全村の3分の2以上の署名をとり中学敷地変更を村議会に陳情することとなった。これを受けて、4月11日の村議会で敷地変更が議決されたのである。52年4月21日には校舎建築の杭打ちがされ、下旬には地鎮祭も行われた。11月3日に管理棟257坪、中校舎311坪が完成し、落成式が行われた。西校舎200坪は52年12月に工事が始まり、53年5月5日に竣工式が行われた。体育館は、53年5月2日に建築方針が決まった。しかし、建設位置について、中校舎北側の民有地(林檎園)を計画したが、買収交渉に失敗して、中学校果樹園をつぶして建築することになった。53年10月7日に敷地整理を始め、11月16日には地鎮祭を行った。54年3月20日に上棟式、6月18日に竣工式を行ったが、体育館287坪の建設費は、管理棟・中校舎・西校舎の3棟の建設費合計よりも高い1380万円であった。完成後まもなく、NHKののど自慢(のど自慢素人演芸会)ラジオ全国放送が行われた。55年4月15日に、音楽室40坪、東便所、管理棟から体育館への渡り廊下が完成し、竣工式が行われた。54年7月に着工し、12月7日に上棟式を行っていた。56年7月3日に特別教室棟314坪が完成し竣工式が行われた。55年11月に村議会が建築を議決し、西校舎北側の民有地400坪を買収して建築したもので、西部農学校を解体して移転改築したもの。1階に理科室、2階に図書館、また家庭科室・調理室が置かれた。58年6月11日に工作室62坪が完成し竣工式が行われた。57年11月に設計図が作られ、58年1月に建築が村議会で認められ、58年4月11日に地鎮祭が行われていた。60年12月26日に金工室が完成し竣工式が行われた。金属切削用の旋盤2台が設置された。1年生男児が旋盤を囲んで写真撮影し、信濃毎日新聞に写真と記事が掲載された。
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