松前慶広
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/20 00:04 UTC 版)
|
|
|
|---|---|
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
| 生誕 | 天文17年9月3日(1548年10月4日) |
| 死没 | 元和2年10月12日(1616年11月20日) |
| 改名 | 天才丸(幼名)、慶広、海翁(号) |
| 別名 | 新三郎 |
| 諡号 | 永泉 |
| 戒名 | 慶広院殿海翁永泉大居士 |
| 墓所 | 北海道松前郡松前町の大洞山法憧寺 |
| 官位 | 従五位下、民部大輔、志摩守、伊豆守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 安東愛季→秋田実季→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 |
| 藩 | 蝦夷松前藩主 |
| 氏族 | 蠣崎氏→松前氏 |
| 父母 | 父:蠣崎季広、母:伝妙院(河野季通の娘) |
| 兄弟 | 南条広継正室、蠣崎舜広、明石元広、慶広、蠣崎吉広、蠣崎守広、下国師季正室、小平季遠室、安東茂季正室、ほか |
| 妻 | 正室:村上季儀の娘 側室:斎藤宗繁の娘 |
| 子 | 盛広、喜庭直信室、忠広、利広、由広、次広、景広、安広、満広、下国広季室 |
松前 慶広(まつまえ よしひろ、旧字体:松󠄁前󠄁 慶廣)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての戦国大名。蝦夷地を支配した蠣崎氏5代当主[1][2]で松前藩の初代藩主[2]。官位は従五位下民部大輔、志摩守、伊豆守。
生涯
家督相続
天文17年9月3日(1548年)、蠣崎季広の三男として大館(徳山館)にて誕生。南条広継の正室となっていた姉に永禄4年(1561年)、長兄・蠣崎舜広が、翌年(1562年)、次兄・明石元広が相次いで毒殺されたため、天正10年(1582年)、父・季広の隠居により家督を継いで当主となる。
安東氏からの独立と蝦夷支配の確立
出羽国比内郡の浅利氏解体など宗家・安東家(愛季)の勢力拡大に協力し、安東家中での発言力を確保した。
天正18年(1590年)には豊臣秀吉が小田原征伐を終え奥州仕置を開始した。慶広は天正18年9月(1590年10月)に津軽海峡を渡り、同年末(西暦では翌年初め)に上洛[3][4]。慶広は安東氏の了解のもと、日本海を通じた海運で結びつきのあった加賀や越前の大名の力添えを得て秀吉への拝謁の機会を得た[5]。この秀吉で慶広は従五位下・民部大輔に任官されるとともに「狄之嶋主」の待遇を受けた[5]。これにより名実共に蝦夷管領の流れを汲む安東氏からの独立を果たしたとみられている[6]。
天正19年(1591年)、南部地方で九戸政実の乱が起きると、豊臣秀吉の命により国侍として討伐軍へ参加した。『三河後風土記』には、アイヌが用いた毒矢が大変な威力であることが記されている[7]。
朝鮮出兵では文禄元年(1592年)肥前国名護屋城に参陣[5]。翌文禄2年(1593年)1月に再び秀吉に謁見した[5]。秀吉は「狄の千島の屋形」が遠路はるばる参陣してきたことは朝鮮征伐の成功の兆しであると喜び、従四位下・右近衛権少将に任じようとするが、慶広はこれを辞退した[8]。慶広は代わりに従来から徴税してきた船役を認めるよう求め、秀吉から朱印状を受けたことで交易徴税権が保証されることとなった[5]。慶広は朱印状を領民に示すと共に、アイヌを集めてアイヌ語に翻訳し、自分の命に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来ると伝え、全蝦夷地(樺太、北海道)の支配を確立した[9]。
なお、文禄2年の冬には子の盛広も朱印状を受けており、蠣崎氏がアイヌとの交易権を占有することとなった[5]。
徳川政権期
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康と誼を通じた。慶長4年(1599年)、家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上した。また、アイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで慶広とその子供たちのみ苗字を松前に改めた。
慶長5年(1600年)には家督を盛広(従五位下・若狭守備)に譲ったとされる[10](後述)。しかし、その後も慶広が政務を司った。
慶長8年(1603年)には江戸に参勤して百人扶持を得た。慶長9年(1604年)、家康から商人が蝦夷地に渡って通商行為を行うことを禁じる黒印状を得た[5]。この家康黒印状には支配領域が示されず、石高の表示もないもので他に対馬藩にしか例のないものであるが、これによって蝦夷地での交易の独占が認められた[5]。さらに慶広は従五位下伊豆守に叙位・任官された。これらを以って、松前氏を大名格とみなし、慶広を松前藩の初代藩主とする[11]が、正式な家格は交代寄合である。
慶長14年(1609年)に猪熊事件が起きて左近衛少将・花山院忠長が蝦夷・上ノ国に配流された。慶広は忠長を城下の福山(松前)で賓客として厚遇した。忠長は5年で津軽へ移されるが、京都の公家に誼を得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めると共に、松前に京都の公家文化をもたらした[12]。
慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の二回にわたり、徳川家康に海狗腎(オットセイ)を献上している(『当代記』)[13][14]。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には徳川方として参陣した。なお、慶長19年(1614年)に豊臣氏に通じたとして、親豊臣派であった四男・由広を誅殺している。
元和2年5月(1616年)、剃髪して海翁と号した。10月12日に死去。享年69。墓所は松前藩松前家墓所にあるが、5世慶広の墓碑は後世に造営されたものである[2]。
なお、先述のように松前氏の家督は慶長5年(1600年)に子の盛広に譲ったとされる[10]。蠣崎信広(武田信広)を初代とする歴代当主の代数に関して、国指定文化財「松前藩主松前家墓所」の解説では、慶広を5代とした上で、盛広を6代として歴代当主に含めている[15]。一方、慶広は松前藩初代藩主であるが、子の盛広は藩主には就かず、2代藩主には盛広の嫡男の公広が就いたとされ[16]、『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などでは盛広を藩主として認めていないが、『松前家記』などでは盛広も歴代藩主として数えている[10]。
系譜
父母
正室
- 村上季儀の娘
側室
- 斎藤宗繁の娘
子女
- 松前盛広(長男)生母は正室
- 松前忠広(次男)生母は正室
- 松前利広(三男)
- 松前由広(四男)
- 松前景広[17](六男)生母は斉藤氏(側室)
- 松前安広(七男)生母は斉藤氏(側室)
- 喜庭直信室後に津軽信建正室
- 松前次広
- 松前満広
- 下国広季室
家臣
- 厚谷季貞
- 蠣崎正広
- 蠣崎基広
- 工藤祐種
- 河野季通
- 近藤義武
- 小平季遠
- 斎藤実繁
- 斎藤直政
- 佐藤季連
- 佐藤季平
- 下国重季
- 下国直季
- 下国師季
- 長門広益
- 南条広継
- 新井田広貞
- 三関広久
- 村上季儀
- 村上忠儀
関連作品
小説
脚注
- ^ 福島憲成「8高等教育機関合同公開講座「函館学」 (PDF)」『キャンパス・コンソーシアム函館』。
- ^ a b c 「松前藩主松前家墓所 (PDF)」『松前町』。
- ^ 日置英剛 編『新・国史大年表 第4巻(一四五六~一六〇〇)』国書刊行会、2009年。
- ^ 高倉 1980, p. 31.
- ^ a b c d e f g h 西野 敞雄「北海道水産税史-北海道租税史(一)-」、税務大学校。
- ^ 木村礎; 藤野保; 村上直 編「松前藩」『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』雄山閣、2002年。
- ^ 八雲町公式HP デジタル八雲町史第4章松前藩の成立 第1節国文学研究資料館・電子資料館 三河後風土記
- ^ 沢石太 編「武田家中興の祖松前慶広」『北海道開拓五十年史 史伝及人物編』鴻文社、1921年、3頁。
- ^ 高倉 1980, pp. 31–33.
- ^ a b c 「福島町の文化財」『福島町』。
- ^ 高倉 1980, pp. 32–33.
- ^ 高倉 1980, p. 33.
- ^ 宮本義己「徳川家康公と医学」『大日光』66号、1995年。
- ^ 宮本義己 著「徳川家康と本草学」、笠谷和比古 編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年。
- ^ 「北海道・松前郡松前町の文化財」『文化遺産オンライン』。
- ^ 新藤 透「「新羅之記録」書誌解題稿」『情報メディア研究』第3巻第1号、情報メディア学会、2004年、1-10頁。
- ^ 河野季通の養子。
参考文献
- 高倉新一郎 編「島主松前藩の成立」『郷土史事典 北海道』昌平社、1980年。
固有名詞の分類
- 松前慶廣のページへのリンク