蠣崎吉広とは? わかりやすく解説

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蠣崎吉広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 11:05 UTC 版)

 
蠣崎吉広
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 正保2年(1645年
主君 松前慶広公広氏広
蝦夷松前藩
氏族 蠣崎氏
父母 父:蠣崎季広
養父:松前慶広
兄弟 南条広継正室、舜広明石元広
松前慶広吉広守広下国師季正室、
小平季遠室、安東茂季室、ほか
重広、次広、清広、在広、女(松前利広室)、
女(下国広季室)、女(明石包好室)
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蠣崎 吉広(かきざき よしひろ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。吉広系蠣崎家初代。

生涯

蠣崎季広の九男で、松前慶広の弟[1]。吉広は兄・慶広の仮養子となり、文禄元年(1592年)に豊臣秀吉に、慶長5年(1600年)に徳川家康に拝謁している[2]。この家康に拝謁した年から慶広の居城・松前城(福山館)の築城、城下町の建設に協力した[2]。慶長19年(1614年)、流罪に処されていた花山院忠長が赦免された際、吉広が忠長を京都まで送り届けた[2]

後に慶広との仮養子関係は解消されたが、慶広から公広、氏広と3代の藩主を補佐して松前藩の藩政も担当し、歴代藩主から厚い信任を受けた[2]

吉広の子孫はその後、松前藩の重臣として藩政に関与した[2]。なお、江戸時代中期の風俗画家として有名な蠣崎広年(蠣崎波響)は、家系上は吉広の子孫である(実際は8代藩主・松前資広の五男のため、血縁関係は無い)[2]

系譜

  • 父:蠣崎季広(1507-1595)
  • 母:不詳
  • 養父:松前慶広(1548-1616)
  • 兄弟姉妹
    • 長女:南条広継正室
    • 長男:蠣崎舜広(1539-1561)
    • 次男:明石元広(?-1562) - 明石季衡の養子
    • 三男:松前慶広
    • 四男:蠣崎随良 - 法源寺住持
    • 五男:蠣崎正広 - 正広系蠣崎家初代
    • 六男:蠣崎長広 - 定広、長広系蠣崎家初代
    • 七男:蠣崎定広 - 信広、但馬守
    • 八男:蠣崎包広 - 与三郎、典三郎、早世
    • 九男:蠣崎吉広(?-1645) - 吉広系蠣崎家初代
    • 十男:蠣崎仲広 - 助五郎
    • 十一男:蠣崎守広(1564-1635) - 忠広、広勝、守広系蠣崎家初代
    • 十二男:蠣崎員広 - 景広、主水助、員広系蠣崎家初代
    • 十三男:蠣崎貞広 - 右衛門大夫、兄:正広の養子
    • 女子:下国師季正室
    • 女子:喜庭季信室
    • 四女:小平季遠
    • 女子:厚谷季貞室
    • 女子:安東茂季正室
    • 女子:村上忠儀室
    • 女子:神浦季綱室
    • 女子:下国重季室
    • 女子:下国直季室
    • 女子:佐藤季連室
    • 女子:村上直儀室
    • 十三女:新井田広貞室
  • 室:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:蠣崎重広
    • 男子:蠣崎次広
    • 男子:蠣崎清広
    • 男子:蠣崎在広
    • 女子:松前利広
    • 女子:下国広季室
    • 女子:明石包好室

脚注

注釈

出典

  1. ^ 川口素生『戦国軍師人名事典』P148
  2. ^ a b c d e f 川口素生『戦国軍師人名事典』P149

参考文献

書籍
史料



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