木喰の再発見とは? わかりやすく解説

木喰の再発見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 14:03 UTC 版)

木喰」の記事における「木喰の再発見」の解説

木喰存在は、没後1世紀上の間大正期に入るまで完全に忘れ去られていた。木喰再発見したのは、美術史家民藝運動推進者であった柳宗悦やなぎむねよし1889年明治22年)〜1961年昭和36年))であった柳宗悦白樺派文学者民芸運動開始し1920年代には李朝時代陶磁器など朝鮮民芸研究していた。1924年大正13年1月山梨県中巨摩郡池田村長松寺現在の甲府市長松寺町)の小宮山清三宅を訪れる。小宮山清三池田村村長古美術蒐集家でもあり、郷土研究行っていた。甲府教会会員でもあり、同じ会員で後に朝鮮民芸研究していた浅川伯教・巧兄弟とも交流があった。李朝陶磁調査のため小宮山家を訪れるが、偶然に同家所蔵地蔵菩薩像無量寿菩薩像弘法大師像の3体の木喰仏見出し木喰仏芸術性の高さに打たれたという。 小宮山宅を訪れたその日地蔵菩薩像贈られ東京へ帰宅するそれまで懸案であった朝鮮民族美術館京城ソウル)で開館させるが、その最中にも小宮山から木喰に関する情報入手し下調べ行っている。なお、当時木喰に関する先行研究はなく、当初小宮山から得ていた木喰伝記に関しては、同時代木食僧・木食観正(1754年 - 1829年に関するものが含まれていたという。 1924年大正13年1月から1926年大正15年2月にかけて木喰仏集中的に研究し小宮山清三宅を訪れた同年1924年6月から翌年7月にかけて350体以上の木喰仏発見している。小宮山らの協力得て木喰仏調査研究のため所蔵者や古美術商訪ね、さらに文献史料博捜し、木喰仏の背銘などを頼り徐々に木喰に関する研究進める。小宮山らと交流し木喰故郷である丸畑訪ねる丸畑では現存する四国諸仏や、『四国心願鏡』を納経帳や宿帳など文献史料発見する1924年7月20日にはそれまで研究成果を『女性9月号に「木喰上人略傳」として発表するその後判明した木喰廻国ルートをたどり佐渡島をはじめ新潟県栃木県静岡県宮崎県四国長野県山口県島根県京都府などを調査する木喰仏発見地元山梨県において大きく報じられ地方紙山梨日日新聞紙上では連日木喰仏発見記事になり、小宮山清三始めとする郷土史家記事執筆している。はこれをスクラップして「抜翠帖」三冊を作成している(日本民藝館所蔵)。 また、小宮山山梨日日新聞社長で郷土史家でもある野口二郎らと雑誌木喰上人研究』を発刊する。1926年まで木喰研究行いその後民藝運動専念している。『全集第7巻 木喰五行上人』(筑摩書房)に集成されている。

※この「木喰の再発見」の解説は、「木喰」の解説の一部です。
「木喰の再発見」を含む「木喰」の記事については、「木喰」の概要を参照ください。

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