木喰の再発見
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木喰の存在は、没後1世紀以上の間、大正期に入るまで完全に忘れ去られていた。木喰を再発見したのは、美術史家で民藝運動の推進者であった柳宗悦(やなぎむねよし、1889年(明治22年)〜1961年(昭和36年))であった。柳宗悦は白樺派の文学者で民芸運動を開始し、1920年代には李朝時代の陶磁器など朝鮮民芸を研究していた。柳は1924年(大正13年)1月に山梨県中巨摩郡池田村長松寺(現在の甲府市長松寺町)の小宮山清三宅を訪れる。小宮山清三は池田村村長で古美術蒐集家でもあり、郷土研究も行っていた。甲府教会会員でもあり、同じ会員で後に朝鮮民芸を研究していた浅川伯教・巧兄弟とも交流があった。柳は李朝陶磁器調査のため小宮山家を訪れるが、偶然に同家所蔵の地蔵菩薩像、無量寿菩薩像、弘法大師像の3体の木喰仏を見出し、木喰仏の芸術性の高さに打たれたという。 柳は小宮山宅を訪れたその日に地蔵菩薩像を贈られ、東京へ帰宅する。柳はそれまでの懸案であった朝鮮民族美術館を京城(ソウル)で開館させるが、その最中にも小宮山から木喰に関する情報を入手し、下調べを行っている。なお、当時木喰に関する先行研究はなく、当初小宮山から得ていた木喰の伝記に関しては、同時代の木食僧・木食観正(1754年 - 1829年)に関するものが含まれていたという。 柳は1924年(大正13年)1月から1926年(大正15年)2月にかけて木喰仏を集中的に研究し、小宮山清三宅を訪れた同年の1924年6月から翌年7月にかけて350体以上の木喰仏を発見している。柳は小宮山らの協力を得て木喰仏の調査研究のため所蔵者や古美術商を訪ね、さらに文献史料を博捜し、木喰仏の背銘などを頼りに徐々に木喰に関する研究を進める。小宮山らと交流し木喰の故郷である丸畑を訪ねる。丸畑では現存する四国堂諸仏や、『四国堂心願鏡』を納経帳や宿帳など文献史料を発見する。1924年7月20日にはそれまでの研究成果を『女性』9月号に「木喰上人略傳」として発表する。 その後、判明した木喰の廻国ルートをたどり佐渡島をはじめ新潟県や栃木県、静岡県や宮崎県、四国、長野県、山口県、島根県、京都府などを調査する。 木喰仏の発見は地元山梨県において大きく報じられ、地方紙『山梨日日新聞』紙上では連日木喰仏の発見が記事になり、小宮山清三を始めとする郷土史家が記事を執筆している。柳はこれをスクラップして「抜翠帖」三冊を作成している(日本民藝館所蔵)。 また、小宮山や山梨日日新聞社長で郷土史家でもある野口二郎らと雑誌『木喰上人之研究』を発刊する。柳は1926年まで木喰研究を行い、その後は民藝運動に専念している。『全集第7巻 木喰五行上人』(筑摩書房)に集成されている。
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