木喰と円空
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 14:03 UTC 版)
木喰は円空仏と出会ったことにより造像活動を開始したとする五来重の説がある。円空(1632年 - 1695年)は美濃国生まれの廻国聖で、生涯に渡り多くの仏を残し、「円空仏」と称される。木喰は円空の存在について直接言及した史料を残していないが、木喰とともに北海道を廻国した弟子の白道は『木食白導一代記』において太田権現を訪れた記録を残しており、円空の名には言及していないが「百体の御仏」を見たとしている。 円空仏と北海道における初期の木喰仏、後年の木喰仏は作風が異なっており、円空仏はノミ痕を残した鋭い彫りの特徴を有しているのに対し、後年の木喰仏は表面を滑らかに加工し丸みを帯びている特徴が指摘される。なお、北海道における初期の木喰仏に関しては2004年に白道の作例であることが判明し(前述)、白道の造像活動の開始は師の木喰に先行している可能性が指摘されている。 円空と木喰の関係に関して、寛政元年(1789年)の菅江真澄『蝦夷喧辞辯』(えみしのさえぎ)に拠れば北海道久遠郡せたな町の太田権現にはかつて多数の円空仏が存在したことが記されており(現在は亡失)、五来は『納経帳』の存在からこれに先行する安永7年(1778年)7月に木喰は太田権現に登り、円空仏を見たとしている。 一方で、小島梯次は『納経帳』の記述は二海郡八雲町熊石畳町の門昌庵における納経を記したものであり、木喰の門昌庵登頂を示すものではないと指摘しつつも、木喰は円空や円空仏の存在を知っていた可能性もあるとしている。 また、木喰は北海道廻国以降に天明6年(1787年)5月から6月に尾張国・飛騨国を訪れている。岐阜県高山市丹生川町の真言宗寺院・千光寺には多数の円空仏が残されており、同地でも木喰が円空仏を見た可能性が指摘されている。ただし、小島が行った悉皆調査(しっかいちょうさ)では同地において木喰仏は発見されなかったという。 天明6年9月には滋賀県東近江市鋳物師町の竹田神社を訪れており、同地にも円空仏が残されている。以後、木喰と円空の足跡が重なることはなく、また円空仏と木喰仏の分布も異なっていることが指摘される。
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