円空と木喰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 05:18 UTC 版)
円空から後代の木喰も同様に日本各地で造仏活動を行っており、ノミ痕の残った鋭い円空仏に対し、表面を滑らかに加工し、後年には柔和で穏やかな表情を有した「木喰仏(微笑仏)」は円空仏と対比されている。 木喰は甲斐国出身の木食僧で、安永7年(1778年)に蝦夷地を訪れ、同地において造像活動を開始したとされる。木喰は同年7月に二海郡八雲町の門昌庵を訪れており諸像を残している(初期の木喰仏)。門昌庵を訪れた安永7年の『納経帳』の存在から、木喰が太田権現を訪れ円空仏を実見して造像活動を開始したとする説もあるが、木喰が円空や円空仏に直接した史料は残されていない。一方で、平成16年(2004年)の調査で初期の木喰仏は木喰とともに蝦夷地を廻国した弟子の木食白道の作例であることが判明し、白道は『木食白導一代記』において円空に直接言及していないが、太田権現で多くの仏を見たと記している。 また、木喰は蝦夷地廻国以降も多数の円空仏が残されている岐阜県高山市丹生川町の真言宗寺院・千光寺を訪れているが、木喰が円空仏を見たという記録は発見されていない。また、円空と木喰の廻国ルートは重ならず、円空仏と木喰仏の分布も異なることが指摘されている。 さらに平成27年(2015年)には青森県上北郡六戸町の海傳寺に伝来する釈迦如来像が初期の木喰像で、安永7年(1778年)の北海道渡道以前の作例であることが確認された。 岐阜県下呂市の下呂温泉寺には円空の善財童子・善女龍神の2像が伝来している。造像年代には諸説あり、下呂市には元禄4年(1691年)の年記を持つ青面金剛神像2体が伝存していることから、本像も同年とする説もあるが、像容と背面梵字の観点から貞享元年(1684年)の作とする説もある。一方、下呂温泉寺には木喰作の地蔵菩薩像も伝来している。天明6年(1786年)6月20日の年記をもち、天明5年(1785年)に滞在していた佐渡島からいったん故郷甲斐国へ帰郷し、2週間の滞在を経て第三回廻国に向かい、岐阜県を訪れた際の作品にあたる。全国には円空仏と木喰仏が両方伝来している場所も存在しているが多くは移座したものであり、下呂温泉寺は円空・木喰がともに造像活動を行い、両者の像が残されている唯一の地として知られる。
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