円福院
円福院
円福院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 00:12 UTC 版)
心定が建立した円福院は「豊原三千坊」と言われた豊原寺にあって中核的な存在だった。しかし、豊原寺は室町時代末期には越前一向一揆に巻き込まれて一揆軍の大将である本願寺の坊官・下間頼照の本陣になるなど戦乱に翻弄され、天正3年(1575年)には織田信長の陣所となって堂塔焼亡し、まったく衰微した。一向一揆制圧後には柴田勝家の甥の勝豊が豊原寺に城を置いたが、ここからは坂井平野を見渡すことができず、翌年には現在地の椀子岡(丸岡)上に丸岡城を築き、豊原から円福院や西得寺などを町の南西、南東方向に移転させ、寺町を形成した。山本博文によれば「古地図を見ると、特に町の南西部には堀がなく(略)、防備が手薄なところに寺院を配することで、城下町の防衛拠点としたのである」という。また明治期成立の『寺院台帳』には「元禄八年有馬候仰信セラレシ時篠岡山ヨリ当町字巽ノ地ニ遷座シ玉ヘシ」とあり、有馬清純が入部の際、丸岡城近くの巽に移転させたことが裏づけられる。 円福院は現在も同地に真言宗智山派の寺院として存続している。
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