有栖川宮家と玉川遠州流
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「玉川遠州流」の記事における「有栖川宮家と玉川遠州流」の解説
京都の有栖川宮旧邸は、平安女学院の「有栖館」として、日本の伝統文化の教育拠点となっている。 系譜 玉川遠州流を嗜んだ親王(※) 初代好仁親王-2代良仁親王(後西天皇)-3代幸仁親王-4代正仁親王-5代職仁親王(霊元天皇の皇子)-6代織仁親王(※)-7代韶仁親王(※)-8代幟仁親王(※)-9代熾仁親王(※)-10代威仁親王 有栖川宮家は、歴代、書道、歌道の師範を勤めて天皇の信任篤く、徳川宗家などとも婚姻関係を結び、公武ともに密接であった。4代正仁(ただひと)親王は後嗣なく薨去。霊元天皇の第17皇子の職仁(よりひと)親王が5代を継承した。職仁親王は、和歌と書道にすぐれ、和歌は桃園・後桜町・後桃園三天皇の歌道師範を勤め、書道は父霊元天皇から伝授を受けた、いわゆる御宸翰流をもとに独特の書法を案出し、世にいう有栖川流を大成させた。以後、6代織仁(おりひと)親王~7代韶仁(つなひと)親王~8代幟仁(たかひと)親王~9代熾仁(たるひと)親王が玉川遠州流を嗜む。8代幟仁(たかひと)親王は、明治天皇の書道と歌道の師である。9代熾仁(たるひと)親王は陸軍大将で左大臣を兼務した。玉川遠州流の有栖川宮家での伝存は、9代熾仁(たるひと)親王が薨去した1895年(明治28年)1月24日に絶える。10代威仁(たけひと)親王(元帥、海軍大将)まで5代職仁(よりひと)親王の血統が続くが、1913年(大正2年)、威仁(たけひと)親王の薨去後は後嗣がいないため、大正天皇の第3皇子の宣仁(のぶひと)親王が有栖川宮を継いで、高松宮家が創設された。1872年(明治5年)、すでに奠都(てんと)によって東京に移っていた明治天皇からの呼び寄せにより、8代幟仁(たかひと)親王は東京市麹町区三年町(現在の永田町 内閣府庁舎の場所)に転住。5代家元大森宗龍も東京に転住され、1886年(明治19年)9月からは、明治天皇の侍従 山岡鉄舟が東京市牛込区市ヶ谷(現 新宿区)に創設された臨済宗妙心寺派道林寺内の江湖(ごうこ)選仏道場(住職は南天棒中原鄧州禅師)に居住して9代熾仁(たるひと)親王の茶匠を務め、1891年(明治24年)に日本茶道学館の創設を計画した。なお、東京空襲で焼失した道林寺は、戦後、妙心寺の支援で、東京都町田市相原町に再建されている。
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