有栖川宮家と玉川遠州流とは? わかりやすく解説

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有栖川宮家と玉川遠州流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 17:25 UTC 版)

玉川遠州流」の記事における「有栖川宮家と玉川遠州流」の解説

京都有栖川宮旧邸は、平安女学院の「有栖館」として、日本の伝統文化教育拠点となっている。 系譜 玉川遠州流を嗜んだ親王(※) 初代好仁親王2代良仁親王後西天皇)-3代幸仁親王4代正仁親王5代職仁親王霊元天皇皇子)-6代織仁親王(※)-7代韶仁親王(※)-8代幟仁親王(※)-9代熾仁親王(※)-10代威仁親王 有栖川宮家は、歴代書道歌道師範勤めて天皇信任篤く徳川宗家などとも婚姻関係を結び、公武ともに密接であった4代正仁ただひと親王後嗣なく薨去霊元天皇の第17皇子の職仁(よりひと)親王5代継承した職仁親王は、和歌と書道にすぐれ、和歌桃園後桜町後桃園三天皇の歌道師範勤め書道は父霊元天皇から伝授受けたいわゆる御宸翰流をもとに独特の書法案出し世にいう有栖川流大成させた。以後6代織仁(おりひと)親王7代韶仁(つなひと)親王8代幟仁(たかひと)親王~9代熾仁(たるひと)親王玉川遠州流嗜む8代幟仁(たかひと)親王は、明治天皇書道歌道の師である。9代熾仁(たるひと)親王陸軍大将左大臣兼務した。玉川遠州流有栖川宮家での伝存は、9代熾仁(たるひと)親王薨去した1895年明治28年1月24日絶える。10代威仁(たけひと親王元帥海軍大将)まで5代職仁(よりひと)親王血統が続くが、1913年大正2年)、威仁(たけひと親王薨去後後嗣がいないため、大正天皇第3皇子の宣仁(のぶひと)親王有栖川宮継いで高松宮家創設された。1872年明治5年)、すでに奠都(てんと)によって東京移っていた明治天皇からの呼び寄せにより、8代幟仁(たかひと)親王東京市麹町区三年町(現在の永田町 内閣府庁舎の場所)に転住5代家元大森宗龍も東京転住され、1886年明治19年9月からは、明治天皇侍従 山岡鉄舟東京市牛込区市ヶ谷(現 新宿区)に創設され臨済宗妙心寺派道林寺内の江湖(ごうこ)選仏道場(住職南天中原鄧州禅師)に居住して9代熾仁(たるひと)親王匠を務め1891年明治24年)に日本茶道学館の創設計画した。なお、東京空襲焼失した道林寺は、戦後妙心寺支援で、東京都町田市相原町再建されている。

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