有栖川宮として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 09:20 UTC 版)
熾仁親王の薨去により、威仁親王は有栖川宮の第10代の当主となった。熾仁親王同様明治天皇の信任が篤く、1899年(明治32年)から1903年(明治36年)まで、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の教育係である東宮輔導に任命されている。一方で、これ以降海軍においては籍こそ現役として置いているものの、実際の軍務にはほとんど従事していない。 日露戦争開戦時も海軍中将であったが、一時的に大本営附となったほかは戦争に全く関与しておらず、日本海海戦が行われた頃には、ドイツ帝国皇太子ヴィルヘルムの結婚式出席のためヨーロッパに滞在していた。 1908年(明治41年)3月2日、栽仁王が盲腸炎を発症し、同月10日、威仁親王は實枝子(実枝子)女王とともに見舞った。手術後の経過も良好で、威仁親王父娘は20日に帰京する。ところが、4月2日に容体が急変。威仁親王は再び実枝子女王と江田島に急行するが、腸管閉塞で手の施しようが無く、翌3日午後4時10分に危篤となった。 威仁親王、栽仁王、実枝子女王の3人は4月5日に江田島を発ち、4月6日夜に帰邸するも、翌4月7日午後4時10分に薨去した 男系の後継者がいない有栖川宮家は、皇室典範第42条の養子を禁ずる規定よって、断絶が確定した。しかし、威仁親王は伊藤博文宛てに嗣子を喪った無念さと共に「有栖川宮先代ノ系統ヲ思ヘバ、先例ニ倣ヒ、皇子孫ノ入ラセラレンコトヲ希望スル他意ナシ」と認めた。伊藤はこれに対し、「帰京ノ上、法規ニ不悖シテ善後之愚考」を奉ると返答した。 同年11月8日、実枝子女王が徳川慶喜公爵の嫡男慶久に降嫁した。
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