有栖川宮家の後嗣、英国留学とは? わかりやすく解説

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有栖川宮家の後嗣、英国留学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 09:20 UTC 版)

有栖川宮威仁親王」の記事における「有栖川宮家の後嗣、英国留学」の解説

1878年明治11年4月40歳過ぎて妃との間に継嗣できない熾仁親王は、稠宮を事実上の養子として有栖川宮後継者にしたい旨を明治天皇願い出る当時はまだ旧皇室典範制定前で、皇族継承問題天皇裁量決められたため、5月18日勅許出された。これにより同年8月26日、稠宮は明治天皇猶子となり、親王宣下受けて威仁の名を賜った1879年明治12年)、威仁親王太政官より、イギリス海軍シナ海艦隊旗艦・「アイアン・デューク(Iron Duke)」への乗組みを命ぜられ、約1年間にわたり艦上作業従事した帰国後の1880年明治13年)、少尉に任ぜられたのを皮切りに12月1日英国留学命じられ日本海軍士官としての歩み始める。10日後の12月11日前田慰子と結婚新婚間もない1881年明治14年1月威仁親王は慰子を残してイギリスグリニッジ海軍大学校留学3年半後の1883年明治16年6月漸く帰国した渡航時、外国公使として訪欧する広島藩主の浅野長勲夫妻同行している。

※この「有栖川宮家の後嗣、英国留学」の解説は、「有栖川宮威仁親王」の解説の一部です。
「有栖川宮家の後嗣、英国留学」を含む「有栖川宮威仁親王」の記事については、「有栖川宮威仁親王」の概要を参照ください。

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