最優良航空会社へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 16:13 UTC 版)
「サウスウエスト航空」の記事における「最優良航空会社へ」の解説
これより少し遡る1978年3月28日、創業期より社長兼CEOを務めていたミューズが辞任し、後任にはユナイテッド航空でマーケティング担当副社長を務めていたハワード・パトナムが着任し、創業者のケレハーは会長に就いた。さらに、パトナムは1981年9月22日に退任し、1982年2月23日からは、ケレハーが社長兼会長兼CEOに就任した。経営に関する全権を掌握したケレハーは、その後のサウスウエスト航空の特徴となる3点の方針を打ち立てた(「運営方針」の節で後述)。 他方、1980年代の他の航空会社では他社の買収などで急激に路線網を拡大する事例が多かったが、サウスウエスト航空は大きな買収などは行わず、基本的には自力での路線展開を進めていった。また、他社では急激な路線展開の後ほどなく撤退を繰り返しているケースもあったが、サウスウエスト航空は基本的には一度就航した地区からの撤退はせず、着実に路線網を拡大していった。さらに、他の航空会社が市場シェアの拡大を重視する 中で、サウスウエスト航空は徹底的に利益を重視した経営を行った。 1988年5月、サウスウエスト航空は米国運輸省が発表する定時運航率の高さ・手荷物の紛失件数の少なさ・利用者からの苦情の少なさの3部門について、米国の全航空会社中でトップとなった。これは、サウスウエスト航空の顧客満足度がトップクラスであるということでもあった。1989年11月からは3か月連続して3部門とも首位となったことから、サウスウエスト航空では1990年1月に "Triple Triple Crown" (3か月連続の三冠王)という広告展開を行った。サウスウエスト航空は一躍米国最優良航空会社として名前が知れ渡ることになる。その後、1992年から5年連続で、年間を通じて "Triple Crown" (三冠王)となった。さらに、1991年には、米国の航空雑誌『エア・トランスポート・ワールド』が主催する賞「エアライン・オブ・ザ・イヤー」を受賞した が、国際線を全く運航していない航空会社の受賞はきわめて異例のことであった。 1990年末には湾岸戦争が勃発し、燃料費の高騰により米国の航空会社は軒並み赤字に転落したが、サウスウエスト航空は1990年第四半期の損失を450万ドルに抑えた。さらに、その後1994年までの景気後退のさなかで利益を計上したのは、米国航空業界ではサウスウエスト航空だけであった。 この時点で、航空自由化政策による航空会社同士の激しい競争は一段落していたが、サウスウエスト航空が雛形とした航空会社は、PSA やエア・カリフォルリア のどちらも他社に買収の上吸収合併されていた。そして、創業時にサウスウエスト航空のライバルだった航空会社も、ブラニフ航空は1982年に連邦倒産法第11章(チャプター11)の申請を行った後に1989年に運航停止となり、テキサスインターナショナル航空はコンチネンタル航空と合併した ものの、そのコンチネンタル航空は1990年に2度目のチャプター11適用申請をする有様であった。また、パンアメリカン航空・イースタン航空のように会社自体が消えてしまったり、航空会社同士の合併が多く行われた結果、航空自由化政策が行われる前よりも航空会社の数は減ってしまっていた。サウスウエスト航空は、それらの激しい競争から常に距離を置いた状態で成長していたのである。
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