曽国藩期待の弟子とは? わかりやすく解説

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曽国藩期待の弟子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 13:57 UTC 版)

李鴻章」の記事における「曽国藩期待の弟子」の解説

道光3年1月5日1823年2月15日)、安徽省廬州府合肥県磨店郷出身名士李文安の次男として生まれた。兄は李瀚章。弟は章・蘊章・李鳳章・昭慶。 士大夫家系であり父が進士だったことから、幼少期から一族期待背負い勉強励み道光20年1840年)に科挙一次試験合格4年後の道光24年1844年)に二次試験郷試合格した。更に父の友人だった曽国藩門下生となり勉強に一層励み道光27年1847年)の会試合格し進士となる(同期には沈葆楨がいる)。翰林院入りしてからも曽国藩との師弟関係続き彼の下で庶吉士編修と共に順調に出世階段を昇っていった。 そんな折、咸豊元年1851年)に起こった太平天国の乱に清が動揺すると、李鴻章身辺にも変化訪れる。咸豊2年1852年)に曽国藩江西省転勤、そこで政府命令受けて湖南省移動湘軍創設し太平天国との戦い開始したのだ。咸豊3年1853年)に李鴻章にも太平天国鎮圧のために転属命令出され友人の呂賢基と共に故郷安徽省戻り安徽巡撫代理周天爵の幕僚となり、合肥本拠地として団練率いて太平天国軍との戦い加わった。 しかし戦果思うよう上がらず咸豊4年1854年1月合肥太平天国占拠され安徽巡撫江忠源自殺すると、後任巡撫福済に仕えた咸豊5年1855年7月父の死去という苦難遭いながらも11月合肥奪還したが、3年後咸豊8年1858年8月に再び合肥奪い返され抵抗諦めた李鴻章家族連れて曽国藩の下へ逃れた湘軍江西省駐屯させていた曽国藩には兄の李瀚章始め弟達も従っており、李鴻章家族揃って曽国藩庇護入った曽国藩幕僚として湘軍属していた時期官僚としての下働きのみであり、目立った活躍見られない。しかし曽国藩李鴻章才能認めていて、湖南省出身が多い湘軍孤立しがちな李鴻章協調重視して厳しく接したり、軍務に携わらせ修養に心を砕き将来一軍率いる将へ成長させることを友人胡林翼書き送っている。やがて咸豊11年1861年9月湘軍安徽省省都安慶陥落させ太平天国西から圧迫すると、反対側の東から救援要請11月曽国藩元へ舞い込み江蘇省の上海から名士銭鼎銘上海太平天国攻撃される寸前援軍願い出ると、曽国藩承諾して李鴻章推薦したかくして李鴻章曽国藩から独立して太平天国対峙することになった

※この「曽国藩期待の弟子」の解説は、「李鴻章」の解説の一部です。
「曽国藩期待の弟子」を含む「李鴻章」の記事については、「李鴻章」の概要を参照ください。

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