暗視ホルモンの投与、効果、戦後の副作用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 04:30 UTC 版)
「黒鳥四朗」の記事における「暗視ホルモンの投与、効果、戦後の副作用」の解説
1945年4月後半、ドイツから輸入された「暗視ホルモン」を投与するとの説明が黒鳥・倉本ペアに対して軍医長から行われた。なお、投与時に副作用に関する説明は行われなかった。ペアは夜間出撃の際に暗視ホルモンの注射をうけ、この投与は複数回に及んだ。5月25日も注射をうけて出撃している。しかしながらこの暗視ホルモンと説明された物質は、中枢神経を興奮させる塩酸メタンフェタミンで、商品名ヒロポンとして知られる覚醒剤であったと主張する者もいる。投与の頻度は頻繁ではなく、夜間空襲の可能性があるときに行われた。6月以降にはアメリカ軍爆撃機が東京に夜間空襲を行う必要性を失ったため、黒鳥・倉本ペアに対する暗視ホルモンの投与の機会もなくなった。 ヒロポンは当時は「除倦覚醒剤」として流通しており、一般的に、また医務科の兵曹クラスでも有害性は認識されていなかった。軍医官レベルにおいても毒性・副作用などのデータが充分周知されていたかには疑問が付され、また投与物質が覚醒剤であるとの内容を知らないことがあった。投与に際しては、技量と戦果を考慮し、実績の少ない黒鳥・倉本ペアが選ばれたと推測される。他の搭乗員に複数回の投与は行われなかった。横須賀航空隊は技術的な実験を行う部隊であり、薬剤も任務として同様に試験された。薬剤とその副作用による人体への被害よりも、投与によるプラス面のみを重視した判断であった。 夜間の視認性に関し、飛行場がどの程度確認できるかを軍医官が質問し、黒鳥少尉はさして変わるところはないと答えている。戦後の取材に際し、黒鳥は「暗視ホルモン」の投与効果につき、眠気がなくなり、冷静な判断力とひらめきを得たこと、恐怖心の抑制を挙げた。しかしながら夜間の視認性は向上せず、全体的にさほど影響はなかったと述べた。 黒鳥への「暗視ホルモン」投与による異常感覚の発現は、戦後すぐの1946年(昭和21年)初夏から始まり、異常感覚がほぼ消失するには昭和60年ごろと非常な長期間を要した。具体的には尖ったものや手や鼻が自分の目に飛びこむ感覚、微熱と目眩、食欲の減退である。 ただし、戦後にGHQに接収された海軍航空技術廠の資料によれば、「暗視ホルモン」の成分は、牛や豚の脳下垂体から抽出されたメラノフォーレンホルモンであり、ナチス・ドイツからの輸入品ではなく日本国内で製造され、台湾沖航空戦で既に使用されており、副作用等の毒性はないもので、実際に黒鳥らが何を注射されたかは不明である。
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