春秋園事件勃発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 04:55 UTC 版)
詳細は「春秋園事件」を参照 1932年1月場所の番付が同年1月5日に発表されたが、その翌日の正午、大井町の中華料理店「春秋園」の勤王の間に大ノ里萬助を先頭とする出羽海部屋所属の西方にいる全関取31名と幕下力士1名が立てこもる事件が発生した。首謀者は天竜で、天竜は以前から力士の不安定な生活に対して憂慮していたため、日本相撲協会に対して改革を要求するために計画を立てていた。 天竜は要求を10項目にまとめて協会に突き付けるが、協会からの回答が誠意無いものとみた天竜ら32名は協会を脱退する共同声明書を発表し、協会へ脱退届を提出して脱退、「大日本新興力士団」を結成した。これがいわゆる「春秋園事件」である。 残された東方力士は、東方単独での1月場所の出場を拒否することを決め、協会は1月場所の無期限延期を決定した。さらに協会は大日本関東国粋会へ調停を依頼し、松本楼で行われた会合で新興力士団に対して「白紙委任」を求めるという威圧的な調停案を迫ったが、新興力士団は条件付きで拒否したため、「国粋会の会員がトラックで新興力士団本部を襲撃する」というデマが流れたことで天竜以外の各力士が避難する騒ぎにまで発展した。この騒動には新興力士団も多少の考慮をせざるを得なくなり、新興力士団30名が2組になって一斉に断髪式を行い、切り落とした髷を白紙に包んで代表の後援会員が国粋会本部へ運び、陳謝状と共に届けた。 単独での1月場所出場を拒否した東方力士は、天竜の主張に呼応した朝潮供次郎・鏡岩善四郎など東方力士の有志が深川の料亭「鳥みね」に集まり、西方力士に同調する旨の脱退声明書を発表、協会を脱退して「革新力士団」を結成した。さらに、その翌日になって伊勢神宮参拝の名目で東京を離れ、伊勢神宮において革新力士団の結盟式を行った。しかし、武藏山武のみはボクシングへの転向を表明したものの、後援者の説得によりすぐ協会に帰参した。 この危機的状況に直面した協会は総会で改革案を決め、残留力士の承諾を得た後に発表した。また、この事件の責任をとって取締以下の全役員が総辞職し、役員改選により藤島(元常ノ花)が取締に抜擢された。東京ステーションホテルで開かれた協会・新興力士団・革新力士団の会談は物別れに終わり、延期していた1931年1月場所を「2月場所」として2月22日からの8日間開催とすることを決め、同時に両力士団の力士48名と行司4名は除名とすることを決めた。48名もの力士が一斉に抜けたことで空白だらけとなった番付は、残留を決めた十両力士を幕内力士へ抜擢(繰り上げ入幕)させても足らず、止む無く幕下から5名を抜擢してようやく幕内20名を揃えた。このうち両國梶之助 (瓊ノ浦)はそれまで十両昇進も無く、入幕以降も十両に陥落したことが無いまま引退したため、明治以降では唯一の「十両経験が無い幕内力士」となった。
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