春秋における中華と夷狄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 12:39 UTC 版)
中華と夷狄の峻別を理論的に説いた文献のうち、現在確認できる最古のものは『春秋』である。『春秋』においては、周初の礼楽を制度化し、夷狄起源の文化要素を排除すべきことを主張したとされる。漢代に春秋学が理論化される過程で、中華思想も「四夷」のような括りが生まれ、理論化されていった。 戦国末期の荀子は儒家の理想国家である商や周の華夷秩序について、中原の王者が治めた地を中心に、畿内、畿外、候、衛、蛮、夷、戎、狄の順に500里ごとの距離をとった同心円状の構造であり、遠近に応じてそれぞれにふさわしい制度で帰服したと説明した。 新の皇帝の王莽は、前漢において夷狄を王に冊封していた慣習を華夷秩序の観点から改め、匈奴や高句麗の王を侯に降格せしめようとしたが、これらの諸国の離反を招いてしまった。
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