春秋園事件~横綱へ
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優勝同点も数回記録する順調な出世だったが、大関を目前とした1931年5月場所の直前に右膝関節炎を患い、無念の休場となる。1932年1月6日には天竜三郎を首謀とした春秋園事件が勃発し、朝潮も日本相撲協会を一時脱退した。協会を脱退したことに激怒した高砂は「朝潮」の名を剥奪して四股名は男女ノ川に戻され、所属部屋も佐渡ヶ嶽部屋へ転属となった。この頃、「落ちてはいけない、登れ」と言われたことで、下の名前は供次郎から「登三」と改めた。 男女ノ川は1933年1月場所に幕内格で帰参するが、この時の番付は別番付、いわゆる「別席」で地位が明記されていなかったため、「無冠の帝王」と言われたが、この場所を11戦全勝で優勝する。この好成績が認められて翌場所に小結へ昇進すると、1934年1月場所には関脇で9勝2敗の好成績によって2度目の優勝、大関に昇進した。 新大関で迎えた1934年5月場所は5勝6敗と負け越したもののそれ以降は好成績を挙げ、1936年5月場所で横綱に昇進した。しかしその後は春秋園事件前に痛めた関節炎の影響で強弱の差が激しく、横綱時代は双葉山定次に全く歯が立たなかった。小手投げを得意としたが、その割に体全体で行わず手先だけで行っていたため、軽く負けてしまうこともあった。この有様に見かねた太刀山峯右エ門が助言しようとしていたが一切聞く耳を持たなかったことで、もしきちんと聞いて修正したら長く活躍できたと思われる。
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