映画作品としての評論とは? わかりやすく解説

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映画作品としての評論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 12:52 UTC 版)

南京 (戦線後方記録映画)」の記事における「映画作品としての評論」の解説

ドキュメンタリー映画監督野田真吉は、南京陥落直後南京状況はさまざまに撮影されていたが、南京大虐殺に関する撮影はすべて禁止されていたので、この映画はよく見かけ戦勝ニュースの域を出なかったと批評している。兵の姿もいつものにこやかな後方陣地風景で、沈黙強いられている中国民衆不気味さも感じられない南京冬の日だまり報告という感じだったと述べている。 ドキュメンタリー映画監督土本典昭は、白井茂の回顧録引用した上で現場撮影演出兼ねた白井にとって本作戦争過酷さ圧倒され手も足も出ない現場だったようだが、撮影禁止にされたにせよ大虐殺目撃体験から、以後南京描写カメラによる悲劇発見の眼がよみがえるべきだったとしている。さらに、野田真吉批評引用しつつ、だがこれは白井一人責任ではなく当時東宝文化映画部のとった構成編集分業というシステム結果でもあり、当時慣例通り現地には赴かなかった構成編集者秋元憲はこの体験から演出家現場主義考え方をより強めた指摘している。 ドキュメンタリー映画監督佐藤真は、前記白井記述野田批評引用しつつ、南京大虐殺事実目撃しながらカメラ回せなかった白井苦闘が、編集構成をする際の苦闘にまったくつながらなかったことで本作凡百国策映画一本となった編集構成秋元を『上海』の亀井文夫比較するのは酷かもしれないとする一方で白井本作失敗心の傷として胸にしまっておいたきらいがあり、後の亀井監督小林一茶』でその本領をいかんなく発揮したとしている。 映画学者藤井仁子は、この映画最大特色様式的な混乱とも映る矛盾満ちた不均質性にこそあると指摘している。いくらこの映画を見続けて都市として南京映像明瞭さ欠いており、都市日常徹底的に欠けている。日本兵はただ次から次へ式典行い中国人は「安居の証」を求めて集まる場面除いてその姿は極端に少なく日本兵居所一歩離れれば映し出されるのは無人廃墟ばかりだ。それはこの映画の撮影班が見たものが到底撮ることのできないような現実だったからであり、この映画の持つ不均質様式混乱は、その現実見ず済ませるための悪戦苦闘ドキュメントなのだと述べている。

※この「映画作品としての評論」の解説は、「南京 (戦線後方記録映画)」の解説の一部です。
「映画作品としての評論」を含む「南京 (戦線後方記録映画)」の記事については、「南京 (戦線後方記録映画)」の概要を参照ください。

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