映画会社を転々と
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同年5月、東活映画社に入社し、5本の作品に出演するが、10月に同社は解散。その後は日本における映画俳優のフリー契約者第1号として、1933年(昭和8年)に片岡千恵蔵プロダクションに招かれ、伊藤監督『堀田隼人』の家老・千坂兵部役で助演。同年、南光明、浅香新八郎らと日本フリーランサー協会を結成。志波青果が興した朝日映画連盟で2作に出演後、12月に新興キネマへ入り、入江ぷろだくしょん提携作『神風連』で入江たか子を相手役に主演。 1935年(昭和10年)、再びフリーとなり、同年10月にマキノトーキー製作所に参加。同社第1回作品の『江戸噺鼠小僧』は月形が原作を書いた作品である。1936年(昭和11年)、P.C.L映画製作所の『桃中軒雲右衛門』に主演。同年6月、マキノトーキーを退社し、1937年(昭和12年)5月に日活京都撮影所に入社。主演作も多いが、片岡千恵蔵や嵐寛寿郎との共演作も多い。1940年(昭和15年)公開の『宮本武蔵』では、佐々木小次郎を演じた(武蔵は片岡千恵蔵)。同年12月日活を退社し、またフリーとなった。 1942年(昭和17年)4月、大映に入社。この頃から脇役を演じることが多くなるが、黒澤明監督の『姿三四郎』で檜垣源之助、稲垣浩監督の『無法松の一生』で結城重蔵を演じ、重厚な演技で場面を引き締めることに貢献している。 戦後、GHQによって剣戟映画が禁止され、現代劇に出演するようになり、1949年(昭和24年)公開の『透明人間現わる』では、あらゆる物質を透明にしてしまう薬品を開発した科学者という、それまでに経験したことがない役どころを演じており、実年齢より大幅に上まわるこの老け役に、抑えた重みのある演技で謎めいた雰囲気を付加することに成功している。
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