日本計算機販売とは? わかりやすく解説

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ビジコン

(日本計算機販売 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/02 10:03 UTC 版)

ビジコン株式会社
Busicom Corp.
種類 株式会社
略称 ビジコン
本社所在地 日本
111-0053
東京都台東区浅草橋五丁目25番7号
帽子会館ビル3F
設立 1944年昭和19年)8月8日
業種 精密機器
事業内容 コンピュータ関連製品の製造・販売
代表者 小島義雄(取締役社長)
資本金 1億5千万円
発行済株式総数 3,000,000株
関係する人物 嶋正利
特記事項:上記は1999年12月20日時点のデータ[1]
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ビジコン株式会社: Busicom Corp.)は、東京都台東区本社を置くコンピュータ関連製品を製造・販売する企業。

概要

沿革

  • 1918年大正7年)4月22日 - 創業者:小島和三郎が中華民国奉天市で昌和洋行(後の「昌和商店」)を創業
  • 1942年昭和17年) - 富士星計算器製作所を設立
  • 1944年昭和19年)8月8日 設立[1]
  • 1945年(昭和20年)4月 - 富士星計算器製作所が日本計算器株式会社(: Nippon Calucrating Machine Corporation、略称:NCM)に改組・改称
  • 1957年(昭和32年)4月 - 昌和商店から計算機販売部門を分離し、日本計算器販売株式会社(: Nippon Calculating Machine Sales Corporation)を設立
  • 1970年(昭和45年)10月 - 日本計算器販売株式会社からビジコン株式会社に商号変更
  • 1974年(昭和49年)2月28日 - ビジコンが倒産。生産会社の日本計算器が会社更生法の適用を申請[2]

歴史

ビジコン HL-21

元々は1918年大正7年)に中華民国(旧満洲奉天市に設立された「昌和洋行」という貿易商社が母体であり、1944年昭和19年)に昌和洋行の子会社として、主に手回し計算機(機械式計算機)の製造販売を手がける会社として設立。当時の社名は「日本計算器株式会社」だった。その後、昌和商店から計算機販売部門を分離して「日本計算器販売株式会社」を設立。手回し計算機の他、三菱電機製のコンピュータ販売代理業務などを手がけていた。

1960年代に世界初の電卓と呼ばれる「アニタ・マーク8英語版」の日本への輸入を手がけた。これを機に電卓業界と関わりを持つようになった。

1966年(昭和41年)には磁気コアメモリを採用した「ビジコン161」で電卓市場に参入。298,000円という、当時の電卓としては破格の低価格かつ高性能を有し、また、発表時には当時としては異例の比較広告を新聞紙上(日本経済新聞)で展開するなど話題を呼んだ[3]。しかし、発表直前に事務機工業会[4]の会長が来訪しての発表中止要請、「通産省の課長」からの電話による発表中止要請を受けるなどの圧力を受けた。さらに、シェアが15%を超え、伸びようというところで、三菱電機から供給を受けていたダイオードの供給増加をストップされて増産ができなくなる憂き目にも遭っている。また、ビジネス通信社が当時発行していた『週刊ビジネスマシーンニュース』で、ビジコン161の特集号を出そうとしたところ、広告がひとコマも集まらず実現しなかったという[5]

1970年(昭和45年)に社名を現在の「ビジコン株式会社」に変更する。

ビジコン141-PF。国立科学博物館の展示。

1971年(昭和46年)には日本初のポケットサイズの電卓「LE-120A」(通称「てのひらこんぴゅうたぁ」)を発売した。また同年には、ストアード・プログラミング方式(プログラム内蔵方式)電卓「141-PF」の開発過程でインテルと共に世界初の1チップマイクロプロセッサであるIntel 4004を開発している。この際にも、インテルへのドル支払いをめぐって通産省や大蔵省の許可がなかなか下りず、特に通産省からは「中小企業の1つや2つ倒産しても、我々は何とも思いません」と言い放たれるなど、何かと障害が多かった[6]

ただ電卓市場の競争激化に加え、石油ショック後の円安による為替差損[7]、三菱電機のコンピュータ市場からの撤退のあおりを受けたことなどが重なり、1974年(昭和49年)に同社は倒産。会社再建後は主にコンピュータ部品の製造販売のほか、最近では電力線搬送通信(PLC)用のモデムの販売なども手がけている。

Intel 4004を初めて搭載した「141-PF」が2011年度(平成23年度)の情報処理技術遺産に認定されている[8]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b ビジコン 会社概要 - ウェイバックマシン(2006年8月26日アーカイブ分)
  2. ^ 「電卓業界ただいま異変 日本計算器が倒産 過当競争・モノ不足響く 販売部門のビジコンも」『朝日新聞』、1974年3月1日。
  3. ^ 瀬尾悠紀雄「電子式卓上計算機技術発展の系統化調査」『国立科学博物館技術の系統化調査報告』Vol.6、国立科学博物館産業技術史資料情報センター、2006年3月、 64頁。
  4. ^ NHKスペシャル『電子立国日本の自叙伝』第4回「電卓戦争」(1991年7月28日放送)、単行本『電子立国日本の自叙伝』下巻 pp.174-180 ママ。日本事務機械工業会か?
  5. ^ NHKスペシャル『電子立国日本の自叙伝』単行本『電子立国日本の自叙伝』下巻 pp.174-180
  6. ^ NHKスペシャル『電子立国日本の自叙伝』第5回「8ミリ角のコンピューター」(1991年8月25日放送)
  7. ^ 富田倫生『パソコン創世記』第一章の記述による
  8. ^ Busicom 141-PF、コンピュータ博物館

参考文献

関連項目

  • 嶋正利 - 同社の技術者としてIntel 4004の開発に関わる。

外部リンク


日本計算機販売

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 15:17 UTC 版)

嶋正利」の記事における「日本計算機販売」の解説

1967年、日本計算機販売(株)(後のビジコン。以下ではビジコンと書く)に入社した入社後事務ソフト部門に配属された。そういったアプリケーション開発には興味がわかず、上司開発部門異動させるよう直訴し、1967年秋に日本計算機製造(株)茨木工場出向となり、待望電卓開発仕事につくことになったその後相次いで開発されるIC対応するため、担当した電卓開発チーム渡米してしまい、他の事情もあり嶋はいったんビジコン離れる静岡県警察転職し科学鑑識課に勤めるも、3ヶ月後に開発仕事ということ電卓世界復帰した。 そして1970年、「Intel 4004」を開発することとなる。

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「日本計算機販売」を含む「嶋正利」の記事については、「嶋正利」の概要を参照ください。

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