日本メディアでの活動
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1998年(平成10年)、バラエティ番組『進ぬ!電波少年』(日本テレビ)の企画で、伊藤高史と共にアフリカ・ヨーロッパ大陸縦断のヒッチハイクに挑戦するパートナーのオーディションに参加。「自分の人生を変えたいんです」との言葉が決め手となり、100人以上の志願者の中から選ばれた。2人のチーム名は広東語で『友達』を意味する朋友(パンヤオ)と名づけられた。母語である広東語と第2言語である英語(第2言語だが、香港人であるため流暢である)を話し、ヒッチハイクでは彼の英語が多くの場面で役に立っていた。一方で、収入があるとすぐホテルに宿泊しようとするなど甘えた姿勢を見せ、それを咎める伊藤と口論になっていた。南アフリカ共和国・喜望峰からノルウェー・スレットネス灯台まで、22,170km、290日に及ぶ大陸縦断ヒッチハイクに成功した。この企画でブレイクし、知名度も急速に上がっていった。 当初は日本語は全く理解しなかったが、旅の期間中に伊藤高史から少しずつ教わり、旅の終盤ではカタコトの日本語を話せるようになっていた。その広東語訛りの口調が魅力となり、日本での芸能活動の中で定着した。日本の漫画を日本語教材代わりにしており、特にあだち充のファンだった。 1999年(平成11年)1月、『進ぬ!電波少年』の司会者となり、番組の企画へも頻繁に参加させられた。また、『雷波少年』の企画「チューヤン・ジャパンツアー」も同時に行っていたため、日本全国を旅しながら司会の仕事のために東京までスタッフの手助けなしで戻る、という日々が続いた。 1999年(平成11年)4月にジャパンツアーが終了すると、それまで司会者のいなかった雷波少年の司会者に就任。その後ボツ企画となったが、ミッチー・サッチー騒動で野村沙知代側の記者も経験する。同年10月からは「電波少年的80日間世界一周の旅」に真中瞳と共に挑戦し成功させた。 2000年(平成12年)、「プロ野球〜東京ドーム 巨人×中日」で、応援していた巨人の敗北を受け、『進ぬ!電波少年』の「アンコールワットへの道の舗装」企画への1か月の応援参加を任命される。これは本人の希望で2か月に延長された。 また、「雷波少年系 後ろ楽しいガーデン」という後楽園ゆうえんちでの企画のプロデュースを任された。Something ELseにテーマ曲を依頼し、完成した「あいのうた」は後楽園ホールで披露された。 2005年(平成17年)2月、「父親の体調が良くないので、そばにいてあげたいと思った」として日本の芸能界を引退した。引退して帰国する際、梨元勝に成田空港で質問され、「勉強になったし、楽しかった」と語った。
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