日本の癩(らい)対策について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 10:47 UTC 版)
「成田稔」の記事における「日本の癩(らい)対策について」の解説
日本の癩(らい)対策は、「癩予防ニ関スル件」の公布(1907年)以後に始まるが、第1回国際癩会議(1897年)における〈癩の予防には隔離が最善〉というハンセンの提言を唯一の方策のように認容した光田健輔は、無癩国日本を目指すには絶対隔離(全ての患者の終生隔離)こそ最良と妄信し、「癩予防法」の公布(1931年)と同年の癩予防協会設立とに併せて〈癩(らい)は恐ろしい伝染病〉という直情的な一言で大衆を操り、癩(らい)患者の排除という気運を高め、療養所以外に行き場がない状態に仕向けた。つまり患者隔離の急速な進展であり、1955年頃には、療養所入所者が11,000人を超えた。 問題は、隔離の実態であって、すべてが死亡することで終わるのでは、もはや医療ではない。これでは、個人の生命、自由及び幸福追求の権利が損なわれるから、隔離に対する国の違憲性の責任が問われて当然である。しかも、この隔離対策は、結果的に「らい予防法の廃止に関する法律」の公布(1966年)まで89年にも及んだ。ここまで長く人間性が無視されたのは、〈癩(らい)患者に対する癩(らい)は病気、患者は人、人はあくまでも人であるという厳しい区分〉を、疎かにして省みなかったからである。このような過ちは、一般的な日本人にとっては、ほとんど普遍的な意識かもしれず、日本の癩(らい)対策はその意味での大きな教訓と言える。 それにしても日本におけるハンセン病新患者の年間発生数は、2000年以降ほぼゼロといってよいが、実際のところ壮丁癩(徴兵検査の際に発見された癩患者)は、隔離開始前にはすでに漸近線状に減少しており、隔離の終焉状態以後ともなると、1966年頃を中心とする高度成長期と平行して急速に減少しており、このような実状からすると、新患者の減少は、国民の生活水準の向上と相関し隔離の効果はどれほどあったかは疑わしい。
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