日本の戦時標準船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 08:35 UTC 版)
戦時標準船は第二次世界大戦中の日本においても建造されている。日本における戦時標準船の構想は第一次世界大戦時からあったが、具体化したのは1937年以降である。量産性を向上すると共に資材節約を優先し、工程や構造、艤装等が大幅に簡素化されたため、耐久性、航海速力、信頼性などを犠牲にして建造された。「戦標船(せんぴょうせん)」と呼ばれることもある。 建造時期により第4次までの計画があり、一般の貨物船、鉱石運搬船、油槽船(タンカー)など各型合計で約1000隻が完成した。計画造船の枠内で建造された船には、鉄道省の青函連絡船の貨車航送船であるW型や、簡易空母兼用タンカーの特TL型、陸軍向けの揚陸艦であるM型やES型、曳航式のコンクリート船などの特殊な船型があり、広い意味ではこれらも戦時標準船と呼ぶことがある。以上の鋼船の甲造船に対し、乙造船と呼ばれた木造船建造に関しても規格化が行われ、戦時標準型機帆船が建造された。 これら戦時標準船の中には戦後になって安全性や信頼性の強化、経済性の改善を目的にした改修工事が行われた船もあるが、青函連絡船・第十一青函丸のように、二重底化工事のため船首と船尾を切断した[要出典]ことにより、洞爺丸台風の際にその切断部分から船体が3つに分断され、瞬時に沈没したケースもあり、改修工事が逆に仇となるといったこともあった。揚陸艦のG型など、計画のみに終わったものもある。 戦後まで生き延びた船も、1950年(昭和25年)施行の低性能船舶買入法により、戦時標準型の船舶は低性能船舶とされ、多くが解体処分になった。解体されなかった船も、昭和30年代半ば(1960年頃)までには廃船となっている。
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