日本の令外官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 22:28 UTC 版)
日本でも、初の本格律令となる大宝律令の制定直後から、参議・造平城京使・中納言・按察使などの令外官が置かれていた。また、儒教以外の知識に通じた官人育成の観点から大学寮に文章博士・明法博士を令外官として設置して、後に文章博士は大学寮の博士の首位となった。淳仁・孝謙(称徳)両天皇の時代には大規模な令外官(造宮省・勅旨省・内豎省・法王宮職など)が乱立され政治が不安定になった。8世紀末になると、律令制の弛緩が進んだため、桓武天皇による大規模な行政改革が行われたが、この桓武による改革以降、律令官制の不備を補うために、令外官が積極的に設置されるようになった。 桓武天皇のときに置かれたのが、797年の勘解由使で、地方国司の行政を監察する職である。9世紀前期には、嵯峨天皇が天皇の秘書官として機密文書を取り扱う蔵人所(蔵人頭)が810年に新設された。同じく嵯峨は、京都の治安維持や民政を行わせるため、824年に検非違使を置いた。10世紀になり、地方で富豪層が登場すると、所領紛争などにより治安が悪化していった。そこで、押領使・追捕使が置かれ、地方の治安警察を担当した。 また、天皇を補佐する関白を884年におき、他に天皇の権限を代行する摂政、天皇が決裁する文書を事前に閲覧できる内覧も令外官であり、平安中期以降、藤原北家が代々これらの職に就任し、摂関政治を行った。 武家政権(幕府)の長として、武家の棟梁が就任した征夷大将軍も本来は蝦夷征討を目的とした令外官の一つであった。
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