日本での組立販売
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:44 UTC 版)
「カイザー・ヘンリーJ」の記事における「日本での組立販売」の解説
ヘンリーJは日本でも組立、および販売がされた。三菱重工業から1950年1月11日に分割された東日本重工業が1950年9月にカイザー=フレーザーの子会社カイザー=フレーザー輸出会社と『ライセンス提携の生産とアジアへの販売』の契約を結んでヘンリーJのCKD(完全ノックダウン生産)を東日本重工の川崎工場でおこない、販売は新規に設立した子会社東日本カイザーフレザーでおこなった。CKD組立した工場は太平洋戦争後日本で初の外国製乗用車を組立した工場であり、その後に続く日産、日野、いすゞのライセンス生産に先立つものでトヨタも含め各社が見学に訪れている。 東日本カイザーフレーザーの社長は東日本重工副社長だった櫻井俊記が就任。1952年日本国との平和条約により三菱の商号や商標の使用も許され、東日本重工は三菱日本重工と社名を変更。東日本カイザーフレーザーも日本カイザーフレーザーに社名を変更した。櫻井は任期途中で三菱日本重工会長となり、日本カイザーフレーザー社長を継続した。 すでにカイザーと社名を変えていた本家がヘンリーJ含め不振だった乗用車生産から撤退し、ジープ生産主体に移行した。ヘンリーJは日本でも1954年9月で生産打ち切りとなった。日本でのCKD生産総数は509台。うち、(米国保護領だった)沖縄、タイへの輸出が185台で、ごく少数の生産にとどまった。三菱はこの提携による生産で、日産・ダットサンやトヨペットなどの架装に供給していた乗用車ボディのプレスや塗装の技術を向上させた。(1952年7月26日の国会運輸委員会で櫻井は、日産50台ではじめ月産千台くらいまでと思っていたが月産50台前後で推移していること、また、その時点までに約500台を生産しドル貨を稼いだこと、さらに沖縄、タイに月30から40台と答弁している) 岡崎市の三菱自動車工業乗用車技術センター内に1989年に開館された三菱オートギャラリーに1953年式ヘンリーJが展示されている。また長久手市のトヨタ博物館には1951年式ヘンリーJが展示されている。
※この「日本での組立販売」の解説は、「カイザー・ヘンリーJ」の解説の一部です。
「日本での組立販売」を含む「カイザー・ヘンリーJ」の記事については、「カイザー・ヘンリーJ」の概要を参照ください。
- 日本での組立販売のページへのリンク