日本、1846年
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「ヴィンセンス (戦闘スループ)」の記事における「日本、1846年」の解説
1846年7月7日ヴィンセンスとコロンバスは日本に向かってマカオを出港し、7月19日に浦賀に入港した。直ちに日本の船が両艦を取り囲み、上陸は許されなかった。ビドルらは丁寧に対応されたものの、日本を開国の交渉は断られた。7月29日、両艦は浦賀を出港、コロンバスは米国に戻ったが、ヴィンセンスはさらに1年中国水域に留まり、1847年4月1日にニューヨークに戻った。9日に任務を解かれ、乾ドックに入った。
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日本、1846年
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「ジェームズ・ビドル」の記事における「日本、1846年」の解説
ビドルは、ジョン・カルフーン国務長官から清滞在中のケイレブ・クッシング公使に対する、日本との外交折衝を開始する旨の指令書を持っていた。しかし、クッシングはすでに帰国した後だった。また、彼の後任であるアレクサンダー・エバレット(Alexander H. Everett)は、日本への航海に耐えうる健康状態では無かった。このため、ビドルは自身で日本との交渉を行うことを決意した。 1846年7月7日、ビドルは戦列艦・コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて、日本に向かってマカオを出港し、7月19日(弘化3年閏5月26日)に浦賀に入港した。直ちに日本の船が両艦を取り囲み、上陸は許されなかった。ビドルは望厦条約と同様の条約を日本と締結したい旨を伝えた。数日後、日本の小舟がコロンバスに近づき、幕府からの正式の回答を伝えるために、日本船に乗り移って欲しいと申し出た。ビドルは躊躇したものの、同意した。ビドルが日本船に乗り込もうとしたとき、通訳の手違いから、護衛の武士がビドルを殴り、刀を抜くという事態が発生した。ビドルはコロンバスに戻り、日本側は謝罪した。結局、幕府からの回答は、オランダ以外との通商を行わず、また外交関係の全ては長崎で行うため、そちらに回航して欲しいというものであった。ビドルは「辛抱強く、敵愾心や米国への不信感を煽ること無く」交渉することが求められていたため、それ以上の交渉を中止し、7月29日(6月7日)、両艦は浦賀を出港した。その際、帆船のため、風が無く浦賀から出られなくなるという事態に陥り、曳航してもらったという事態も起きたことがある。なお、ビドルが来訪するであろうことは、その年のオランダ風説書にて日本側には知らされていた。 ビドルはコロンバスを率いて太平洋を横断し、12月にはチリのバルパライソに到着した。米墨戦争の勃発に伴い、翌1847年3月2日にはカリフォルニアのモントレー沖に移動した。そこで、太平洋艦隊と合流し、先任であったビドルは太平洋艦隊の司令官となった。 7年後、マシュー・ペリーは日本の開国に成功する。ペリーはビドルの失敗を研究し、砲艦外交によって日本を開国させたのである。 1848年10月1日、ビドルはフィラデルフィアで死亡し、同地のキリスト教会墓地(英語版)に埋葬された。
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