新疆奪回へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:24 UTC 版)
北西の状況は安定したが、左宗棠には更に西の新疆奪回の任務が与えられていた。清の領土だった新疆もイスラム教徒の反乱が頻発し、新疆に隣接するコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクが混乱に乗じて新疆を乗っ取り(ヤクブ・ベクの乱)、ロシアも南下政策で新疆北部のイリ地方を占領するという状態だった。 左宗棠は直ちに新疆遠征の準備に取り掛かったが、かつての協力相手だった李鴻章がこれに反発、同治13年(1874年)に海防・塞防論争が起こった。左宗棠はロシアに対する陸上の備えの重要性を主張する塞防派の代表格であり、イギリスに対するために海軍を重視する海防派の代表格である李鴻章とは政治的に対立関係にあった。新疆に関しても、弱体化した支配を立てなおそうとする左宗棠と、海軍に集中するために防衛の難しい新疆をロシアに割譲しようとする李鴻章との間では意見の相違があった。論争は翌光緒元年(1875年)まで続いたが、軍機大臣文祥が賛成したため海防・塞防どちらも行う方針で決定され、欽差大臣に任命された左宗棠はヤクブ・ベクの乱により清の支配力が弱体化した新疆の軍務を担当し、副将の金順・劉錦棠・史念祖・譚鍾麟らを従え、新疆東部で清の数少ない拠点ハミで屯田持久策を採り、出兵を整えていた。 光緒2年(1876年)5月、左宗棠の先鋒部隊はハミから北のバリクルへ進駐、西へ進みウルムチ近郊でヤクブ・ベク軍と衝突、金順・劉錦棠はこれを退けウルムチを落とし、その他の拠点も奪回し新疆北部を手に入れた。翌光緒3年(1877年)3月には劉錦棠がウルムチと新疆南部を繋ぐ達坂城を落城、部将張曜も南部を西進して劉錦棠と合流した。5月にトルファンが降伏、ヤクブ・ベクが急死して大勢は決し、劉錦棠は11月までに新疆を西進して反乱地域を平定、11月に西端のカシュガルを落として新疆を奪回した。同年、左宗棠は守備強化を目的に省設置を中央へ奏上、後の新疆省設置に繋がった。 一方、イリ地方は返還交渉がなかなか進まず、光緒4年(1878年)に崇厚が中央からロシアへ派遣されたが、翌5年(1879年)に清とロシアの間で締結されたリヴァディア条約が不平等条約だったため、左宗棠は激しく崇厚を非難した。清は改めて曽紀沢を派遣して交渉に当たらせ、光緒7年(1881年)にイリ条約を締結、イリ地方返還を果たし北の領土問題は解決された。これに先立ち左宗棠は軍を動かしロシアを威嚇したが、和平に傾く政府の意向で光緒6年(1880年)7月に中央へ呼び戻された。代わって劉錦棠が司令官となり、光緒10年(1884年)に新疆省が設置されると初代巡撫に就任、金順もイリ将軍として新疆省の治安維持に尽くした。 中央召還後左宗棠は清の重臣として軍機大臣、両江総督兼南洋大臣、東閣大学士の要職を歴任。清仏戦争では光緒10年8月から翌11年(1885年)4月まで欽差大臣として福建省沿岸の防衛を任命された。同年9月、72歳で福州で病死。著書に『左文襄公全集』がある。
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