文化映画の世界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:45 UTC 版)
東宝映画に残留した下村であったが、1940年(昭和15年)、同社文化映画部へ配転された。同年10月17日に公開された『貝塚』では、瀬川順一(1914年 - 1995年)が撮影技師としてデビューしている。1942年(昭和17年)、『法隆寺』で中央文化賞を受賞した。 1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終結、翌1946年(昭和21年)、日本映画社を退社してフリーランスになる。1956年(昭和31年)に発表した『志野 陶匠荒川豊蔵』が、同年度の毎日映画コンクール教育文化映画賞を受賞した。1970年(昭和45年)以降は「下村プロダクション」を構え、製作・監督・脚本・撮影を兼務した。京都市北区の北大路通近辺の自宅のほか、東京・下北沢のモダンなアパートメントハウスとして知られた「秀楽園」に事務所を構えていたという。御荘金吾(1908年 - 1985年)によれば、下村は古書画や浮世絵にも造詣が深く、1977年(昭和52年)の「川上音二郎・貞奴展」で展示された川上音二郎の書簡にまつわり、宛先の野村芳国が野村芳亭の実父であり、野村芳太郎の祖父であることを指摘し、柳永二郎や岡部龍らを感嘆させたという。岸松雄によれば「ハニカミ屋で、あまり人とつきあいたがらない性質」「温厚寡黙、決して敵をつくらない人」であったという。上野耕三(1908年 - 1981年)は「戦前『法隆寺』とか戦後は『芭蕉』とか、歴史もののいい作品を作った人」と回想する。門下に藤原智子(1932年 - )らがいる。 1993年(平成5年)、京都府京都市で死去した。満90-91歳没。
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