教育・軍歴と戦直後のキャリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 06:46 UTC 版)
「ジャック・ヘミングウェイ」の記事における「教育・軍歴と戦直後のキャリア」の解説
ジャックはモンタナ大学とダートマス大学に通っていたが、卒業はしなかった。1941年の真珠湾攻撃の後、アメリカ陸軍に入隊した。 1943年末のある日、ニューヨーク州オレンジバーグ近くのキャンプ・シャンクス(英語版)で、バーにいた2人の年配の男性(そのうち1人は顔見知りだった)が、アーネスト・ヘミングウェイとウィリアム・フォークナーのどちらが優れた作家かについて議論しているのを耳にした。ジャックはそれを遮って、自分の意見として「ヘミングウェイやフォークナーよりも優れたストーリーテラーである作家、モーリス・ウォルシュ(英語版)がいる」と言った。男性の一人が「私がモーリス・ウォルシュです」と言うと、ヘミングウェイは「私はジャック・ヘミングウェイです......お会いできて嬉しいです」と答えた。 1944年、フランスに赴任し、黒人兵士の特殊部隊を指揮する憲兵隊員として軍歴をスタートした。その後、戦時情報機関である戦略情報局(OSS)(中央情報局(CIA)の前身)に異動した。OSSでは、フランス語を話せる少尉として、フランスのレジスタンス(英語版)と行動を共にした。任務のためにナチス占領下のフランスにパラシュートで降下する際に釣りの道具を持参し、任務を終えて釣りをしている最中にドイツ軍に捕らえられそうになったこともあるというエピソードがあるほど、大胆な感覚の持ち主であった。アルジェでの休暇中、父の3番目の妻のマーサ・ゲルホーンと出会った。ゲルホーンのことをジャックは「大好きなもうひとりのお母さん」と呼んでいた。ジャーナリストであるゲルホーンは、フランス軍の従軍記者としてイタリアに向かう途中だった。 1944年10月下旬にフランスのヴォージュ地方で負傷してドイツ軍に捕らえられ、1945年4月までムースブルグ収容所に捕虜として収容されていた。捕虜になっている間、体重が210ポンド(95キログラム)から140ポンド(63キログラム)まで落ちた。釈放後はパリに送られ、1945年5月8日のヨーロッパ戦勝記念日を祝うシャンゼリゼ通りでの群衆に加わった。戦時中の功績により、フランス政府からクロワ・ド・ゲール勲章(英語版)を授与された。 戦後、ドイツの西ベルリンとフライブルク・イム・ブライスガウ、アメリカ・ノースカロライナ州のフォート・ブラッグに短期間駐留した後、退役した。除隊後は、株式仲買人、釣り用品の販売員などの仕事をしていた。1967年に仕事をやめ、父の終の棲家であり埋葬地でもあるアイダホ州ケッチャム(英語版)に移った。そこで彼は語学を教え、フライフィッシングに情熱を傾け、2冊の自伝を書いた。
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