政治家としての西園寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 13:58 UTC 版)
西園寺は聡明で国際的な視野を持ち、学識が深く、文化的にも洗練された人物であるという評価が大勢である。また民主主義の潮流についても支持していたが、一方で大衆の熱狂には批判的であった。 またフランス留学の影響からか親欧米的で、軍部などから国家主義に反する者として「世界主義者」と非難されることもあった。また『原敬日記』の記述から、西園寺は権力への執着が乏しく、政治的な手腕がなかったという見方をされることもあるが、伊藤之雄などのように円熟した政治的手腕を持っていると評価する研究者もいる。西園寺は冷淡で物事に淡泊であるというイメージを、秘書である松本剛吉からも抱かれていたが、これは中立的な人物であることを認識させるため、西園寺自らが広めたイメージである。宮中・財界との姻戚関係を背景に、西園寺は元老として宮中と国務、軍部の調整役を務め、日本の政治をリードし続けた。また、文部大臣在任中に教育勅語の改訂を試みるなど昭和初期の国家主義的政治家とは一線を画す言動を散発的に見せるが、軍部の勢力拡大に抵抗したものの、彼だけの力では戦争回避を成し遂げることはできなかった。 西園寺は立命館大学に寄贈した扁額に「藤原公望」と西園寺家の本姓で名前を記したように、自らが千年以上皇室とともにあった藤原氏の末裔であるという自覚を持っていた。また、幼い頃から皇室に親しんでいたこともあって、「皇室の藩屏」という意識が強く、それが政治姿勢となっていた。すなわち絶対的な権力を持つが故に誤謬が許されない天皇の親政に反対し続けた。これは田中義一が張作霖爆殺事件(満州某重大事件)の上奏の不一致を昭和天皇に叱責され内閣が総辞職した際、西園寺が天皇に累を及ぼすということを口実にして、天皇による田中への叱責に反対していたことから見ても明らかである。また、「立憲君主として、臣下の決定に反対しない」という昭和天皇の信条は西園寺の影響とする向きもある。しかしながらこの姿勢は一方で、国粋派や革新派の反感をも招いた。
※この「政治家としての西園寺」の解説は、「西園寺公望」の解説の一部です。
「政治家としての西園寺」を含む「西園寺公望」の記事については、「西園寺公望」の概要を参照ください。
- 政治家としての西園寺のページへのリンク