採油能力の低下と試掘期限延長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 22:15 UTC 版)
「北樺太石油」の記事における「採油能力の低下と試掘期限延長」の解説
石油会社は事業継続のため、新たな油田開発を行い採油能力の向上を図る必要がある。しかし北樺太石油では、株主に高配当を約束していたこともあり、経費がかかる一方で短期的な利益を生まない試掘を軽視。創業から1930年度までに試掘を行ったのは、ヌトウォ、カタングリ、北オハ、ポロマイの4区域だけであった。コンセッション終了期限に全資産をソ連に引き渡すことになっていたため、会社の財産を担保に資金調達することができず、当初は補助金も無かったため増資によるしかなかった。1931年(昭和6年)に資本金を2,000万円へ増資するとともに、ヌトウォ、カタングリ鉱床の開発を中止して試掘を強化。日本政府からは1932年に10万円、1933年に28万4千円などと試掘助成金が給付された。しかし、1936年度までの試掘作業の支出1,336万円に対し、試掘助成金は380万円にとどまり全く足りなかった。この結果、1930年代前半をピークに経営は下降線をたどり、年8パーセント配当を維持できなくなり、役員報酬も減額を余儀なくされた。 1935年7月に社長就任した左近司政三は、1936年以降、試掘重視から採掘重視へ経営方針を転換。オハ油田の開発と並んで、北オハ、カタングリ鉱床の開発を進めた。しかしオハ油田の採油量が減少する一方で、北オハ鉱床の採油量は微増にとどまりオハ油田の減産を補うには至らなかった。またカタングリ鉱床は、1937年に申請した海底パイプラインの建設をソ連が許可しないなど事業を妨害したことにより、1940年には撤退を余儀なくされた。 試掘期間は1925年から1936年(昭和11年)までであったが、実際に試掘に着手したのが1928年と3年間を無為に過ごしたことから、北樺太石油は早くも1929年にはソ連へ期間延長を求めた。しかしソ連はまだ試掘期間が残っていると主張し、交渉は難航。1936年に左近司社長がソ連へ行き交渉した結果、ソ連人労働者の福利向上等を交換条件に試掘期間が5年間延長された。これを受けて、北樺太石油は未払込の増資金の徴収や政府保証債の発行、政府補助金により総額900万円の試掘計画を立てた。ところが同年11月に日独防共協定が締結されると、ソ連からの圧力が増していった。この結果、1937年にはポロマイ、クイドゥイラニ、チャイウォ、コンギ支所を閉鎖。試掘が進まない状況から日本側は試掘期限の再延長を求めたが、1936年の延長時に付属文書で再延長は行わないと約していたためソ連は認めなかった。
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