授与基準の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:54 UTC 版)
当初、購入希望者は1,095ポンドを財務省に通常3回の分納で支払うことになっていたが、金額も決済方法も厳密に守られ続けたわけではなく、需要と供給により変動があった。それでも準男爵設置後数年間はほぼ規定通りの額が支払われたようである。1611年3月から1614年3月までに財務省に準男爵購入金額として90,885ポンドが払い込まれているが、この資金はアイルランドのイングランド軍駐屯費の約70%を充足した。 勅許状で曖昧になっていた準男爵の序列について男爵の下か、男爵のヤンガーサンの下か、1612年4月の枢密院において激しい論争が行われたが、結局国王の裁可で男爵のヤンガーサンの下、ナイトの上位と定められ、準男爵にはアルスター紋章「アルスターの赤い手」の使用が認められることになった。 1614年の議会では準男爵の創設に不安を持つ男爵とナイトの称号を持つ者たちが準男爵の廃止を要求している。実際に廃止されることはなかったが、準男爵への風当たりは強かったことが見て取れる。 1614年の議会の失敗で議会から補助金を得られず王庫が一層不安定になると、政府は貴族の爵位の販売を開始しはじめ、唯一購入可能な位階という位置づけだった準男爵が宙に浮くようになった。 さらに1618年には国王側近ジョージ・ヴィリアーズ(のちのバッキンガム公爵)が準男爵をナイトと同格に格下げし、1,095ポンドの条件も事実上破棄したことで宮廷が恣意的に授与するようになった。 購入価格は急速な値崩れを起こし、1619年には700ポンド、1622年には220ポンドで購入する者があった。1619年以降、準男爵は急増し、1622年までに198家に達している。200家に限定するという公約があったため、ジェームズ1世は1623年にプレイターズ準男爵を創設した際にこれが最後の創設であることを宣言し、1624年には1家を追加しただけで、その後崩御まで準男爵の新設はしなかった。 しかしチャールズ1世即位後、三十年戦争の戦費の増大で王庫はさらに困窮したため、バッキンガム公の主導で準男爵の当初の規定は破棄され、バッキンガム公派に85の準男爵位創設権が与えられた。1626年から1629年にかけて87家が準男爵を購入したが、その大半はバッキンガム公派の斡旋だった。この時期には安い場合では200ポンドを割ることもあった。 1629年のバッキンガム公暗殺後、チャールズ1世は準男爵の創設を厳しく抑制するようになり、1630年から1640年の間に準男爵に叙位されたのは4家のみである(うち1632年から1639年の間はゼロ)。しかし1640年以降は再び急増し、1641年と1642年の間には129家が準男爵に叙位された。これは国王と議会の対立が深まり、イングランド内戦へ向かう政治情勢の中、少しでも多くの地主を王党派に取り込もうとしたチャールズ1世の苦肉の策だった。財源の確保という本来の目的はこの段階でほぼ失われた。
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