持株会社の成立経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 18:16 UTC 版)
渋沢栄一は、1873年(明治6年)に第一銀行(後に第一勧業銀行を経てみずほ銀行に)を創設。以後500にのぼる企業の創設、育成に携わった。栄一は日本の近代化のために社会に必要な産業を担う新たな企業を起こして、軌道に乗せることに情熱を傾けた。自ら設立した企業であっても株式を大量に保有する事によって、いわゆる経営支配を行う事には関心は無かった。家族や縁者が長く経営の責任ある立場に関与し続けたのは、第一銀行や澁澤倉庫などの限られた企業しかなかった。 このように渋沢財閥が微弱な小財閥になったのは、渋沢栄一が経済と道徳の合一を掲げて実践したからである。渋沢栄一は井上馨など政治家との繋がりがあったので、望めば利権を得ることが出来たが、そうしなかった。また、浅野総一郎・大川平三郎・古河市兵衛・山下亀三郎・福沢桃介・大倉喜七郎・植村澄三郎・門野重九郎などの財界の大物たちは渋沢に恩義があり、渋沢が望めば喜んで部下として活躍したであろうが、渋沢は見返りを求めなかった。例えば、古川は恩返しのために、足尾銅山の共同経営を渋沢に申し込んだが、断られた。渋沢は関係した多数の会社を、望めば自分のものに出来たのであるが、そうしなかった。しかも、渋沢が生きたのは日本経済の発展成長期であり、自身の経営能力や、名声や、第一銀行の資本力を用いて、容易に大財閥を築くことが出来たのに、自分だけの利益を追求しないで社会全体の利益を追い求めたのである。 一方で栄一の多方面での活躍から、その資産も結果的に膨らむことになり、栄一は死後にそれを巡って一族内で争いが起こることも懸念し、娘婿で東京帝国大学法学部長も務めた民法、家族法の権威である穂積陳重をして、1891年(明治24年)に渋沢家家法を定めさせ、澁澤同族会を組織して一族の財産管理等を行わせた。その延長で1915年(大正4年)には資産管理会社として澁澤同族株式会社(資本金330万円)を設立し、保有していた各社株式はじめ一族の資産を同社所有とし、澁澤同族会メンバーには澁澤同族株式会社の株式を持たせた。
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