技術者学校設立の必要性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 14:35 UTC 版)
「イスラエル工科大学」の記事における「技術者学校設立の必要性」の解説
1901年、ドイツのベルリンにおいて、「ドイツ系ユダヤ人による慈善協会」(通称「エズラ」)が発足した。「エズラ」協会には、「東欧のユダヤ人を助けること」および「ドイツ外のユダヤ人に対するドイツ文化の促進」という2つの目的があった。 1907年の9月から12月、創始者であるパウル・ナタン博士はエズラ協会の設立した学校を調査するため、パレスチナを訪問した。パレスチナ滞在時に、彼の脳裏に「技術者学校のプランで高等教育機関を建設してみてはどうか、きっとそれがエズラ協会最大の活動になるのではないか」との案が湧いた。 彼の思索は、地域で起こり始めていた変革によるものである。当時パレスチナの地を支配していたオスマン帝国は、科学技術的にヨーロッパより遅れをとっていた。時を同じくしてトルコ政府は大規模な生産開発を計画し、多くの技術者を必要としていた。しかし当時、オスマン帝国全土に養成学校が皆無であったため、このような技術者は存在しなかった。その為、帝国外部から専門の技術者を呼び寄せる他はなかったのである。 ナタンは、この新しい技術者学校を卒業するユダヤ人が、新分野の研究に携わるには、以下の条件が必要だと望んだ。 パレスチナのユダヤ人の経済状況が改善すること ドイツの経済が間接的な支援を得ること(全ての機材、建設材料の一部や工学関係の知識はドイツから取り寄せられるため) 多くの東欧地域でユダヤ人が学ぶことを禁じられていた専門分野を、イスラエルの地で学べるようになること もっと多くのユダヤ人がイスラエルの地への帰還を欲すること ナタンは、この技術者学校ではドイツ語で教育しようと計画していた。何故なら、予定されていたテキストは全てドイツ語であったし、学生が扱う予定の装置もドイツから取り寄せていたためである。(資金がドイツのエズラ協会から届く為、当然ではあるが。) 1908年、ナタンは、ホヴェヴェイ・ツィヨン(Hovevei Zion)の指導者の一人であり、ヴィソツキー・ティー社の創始者でもある、ゼエブ・クロニムス・ヴィソツキーの息子、ダヴィッド・ヴィソツキーに協力を求めた。ヴィソツキーは技術者学校設立のために、10万ルーブルを請け負い、その後も5年に渡って更に10万ルーブルを寄付し続けた。クロニムス・ヴィソツキーの親友であったアハド・ハアムが交渉の協力者となり、ついに当施設のユダヤ人の意向を約束する協定が結ばれた。 1908年3月29日、ベルリンにてヴィソツキーとアハド・ハアムは、エズラ協会の「ヴィソツキー基金」設立を証明すると署名し、イスラエルの地に技術者学校が建設される道が開かれたのである。
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