手稲鉱山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 22:06 UTC 版)
明治期より、星置川で砂金が採れたため、手稲山には金が眠っていると噂された。明治20年代半ば、星置で農業を営む鳥谷部弥平治が金脈を偶然発見した。道庁に試掘を申し出、全財産を投げ打って明治40年頃まで探したが、良い結果は得られなかった。大正に入り、元道庁の技師石川貞治が鉱業権を取得し、手稲鉱山と命名。一時成功するが、新たな金脈探しに失敗し、一度閉山する。 昭和に入り、1928年に広瀬省三郎が鉱業権を得る。1934年には現在の手稲駅近くまで鉄索をひき、同年の出鉱量は約3万4千トンにのぼった。 1935年に三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)が買収。金・銀・銅・亜鉛・テルルなどを最盛期には月6万トン産出し、一時期は鴻之舞鉱山に次ぐ日本第二位の産出量を成し遂げていた。 金の総生産量は10.8 tにのぼり、これは、鴻之舞鉱山、千歳鉱山に次ぐ規模であった。 第二次世界大戦後、国の鉱山政策の転換等の影響を受け徐々に規模を縮小し、1954年に残鉱堀りや選鉱場等の施設撤収を終え、荒川鉱業に経営を譲った。その後、1957年に千歳鉱業に継承され採掘を続けたが、採掘量の減少や周辺の都市化の影響も受け、1971年を最後に閉山した。 他の銅を産出した鉱山と異なる点として、銅の鉱石鉱物のほとんどが安四面銅鉱や硫砒銅鉱といった硫塩鉱物(英語版)であり、一般的な国内の銅鉱山では黄銅鉱を鉱石鉱物としていた。 様々な鉱物を産出するため鉱物収集家には有名な産地として知られている。1936年に手稲石(teineite、CuTeO3・2H2O)、閉山後の1993年に渡辺鉱(watanabeite、Cu4(As,Sb)2S5)、2001年にリシェルスドルフ石(richelsdorfite)といった新鉱物や珍しい鉱物が発見され、世界的にも有名な鉱山である。 現在も手稲区内の地名や札樽自動車道の金山パーキングエリアに金山(かなやま)の名を残しているが、これはかつて金を産出していた鉱山の名残である。また、付近のバス停にも手稲鉱山の名が残っている(→「札樽線 (ジェイ・アール北海道バス)」参照)。
※この「手稲鉱山」の解説は、「手稲山」の解説の一部です。
「手稲鉱山」を含む「手稲山」の記事については、「手稲山」の概要を参照ください。
- 手稲鉱山のページへのリンク