戦前期 - 騎手・調騎兼業時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 08:05 UTC 版)
「稲葉幸夫」の記事における「戦前期 - 騎手・調騎兼業時代」の解説
キンテンと稲葉。轡は馬主・肥田金一郎。 東京移転の直前、家族と。稲葉の隣は父・秀幸、前列右から妻、母・さと、妹(梶与四松妻)。さとが抱いているのは長男・隆一。 1928年1月、騎手免許を取得。当時は公認競馬と地方競馬の交流が盛んに行われており、同月に地方競馬の羽田競馬場で初騎乗、さらに柏競馬場で初勝利を挙げた(騎乗馬タマホコ)。体重が重かったため、主に障害競走で騎乗し、1934年には秀男が管理するキンテンで第1回の大障碍特別競走(現・中山大障害)に優勝した。同馬とはその4日前に障害呼馬戦を単走競馬で勝利している。これは日本において単走競馬が行われた最後の例である。同日はこの勝利を含め、平地、障害、繋駕速歩で3連勝を挙げるという、日本競馬史上唯一の記録も作った。兄弟子の藤本からも障害馬を中心に騎乗を依頼され、1938年秋には藤本の管理馬リードアンで中山大障害2勝目(当時は「中山農林省賞典障碍」)を挙げた。藤本は幸夫を「当時の名騎手」と評している。 騎手活動の傍らで、秀男が中山競馬場に置いていた分厩の管理も任され、事実上調教師としての活動も並行していた。1936年には正式に調教師免許を取得し、中山競馬場で自身の厩舎を開業、調教師・騎手兼業となった。1939年には日本競馬会が調教師と騎手それぞれの専業性を明確にするため、両免許の二重所持を禁止する「調騎分離」を打ち出したが、当時若年であった幸夫と岩佐宗五郎、松永光雄は例外的に兼業を許可された。同年4月29日には、秀男の管理馬ロツクパークで第1回横浜農林省賞典四歳呼馬を制覇。翌1940年には、自身の管理馬テツバンザイの手綱を執って阪神優駿牝馬(現・優駿牝馬)を制し、調教師としてのクラシック競走初優勝を果たした。 翌1941年末に太平洋戦争が勃発、その激化によって競馬開催が困難となると、1944年には中山競馬場も一時閉鎖となり、同年4月に幸夫は東京に移り、世田谷区の馬事公苑でアラブ馬の管理を担当、次いで競馬会が編成した輓馬機動隊に編入され、馬車を使って配給と供出金属回収のための巡回を担当した。なお、戦後は調騎分離が徹底されたため、競馬休止に伴って騎手業からも引退となった。騎手としては通算174勝(うち障害103勝、平地43勝、繋駕28勝)を挙げた。
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