戦前・戦中まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 05:27 UTC 版)
1935年に朝鮮人ジャーナリストの依頼で満州に渡り、朝鮮人のコロニーを取材。また福岡中学の先輩で中野正剛の秘書をしていた我観社の進藤一馬の知遇を得て、東方会の機関誌『我観』(後『東大陸』に改名)に「朝鮮民族の史的変遷」など時事論文などを執筆。また大野正夫、片山敏彦、長谷川四郎らの雑誌『世代』、大井廣介らの『現代文学』に文芸論を発表した。1939年には東大陸社に入社して『東大陸』の実質的編集長となり(これらは、戦後吉本隆明との論争において「東方会の下郎」と誹謗される根拠となった)、中野正剛の実弟中野秀人、野口米次郎、福池立夫らと「文化再出発の会」を結成し、中野正剛から資金を得て機関誌『文化組織』を創刊。『自明の理』や『復興期の精神』としてまとめられる一連の文章を発表した。1940年に『東大陸』編集を辞め、秋山清の紹介で林業新聞社に入社。1941年に文化再出発の会の「魚鱗叢書」として『自明の理』を刊行するが、「文化再出発の会」は中野正剛との関係が絶たれ、経営は苦しくなった。1942年以後サラリーマン社『時局月報』、木材通信社『木材通信』、軍事工業新聞社『軍事工業新聞』など記者、社説の執筆なども務める。また1943年に『現代文学』誌に、大東塾顧問三浦義一と尾崎士郎の対談や影山正治を批判した「虚実いりみだれて」を発表し、大東塾関係者に暴行を受け、謝罪文を書かされる。また戦時下の雑誌統合で『文化組織』は終刊となる。
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