憲法批准のための苦しみ
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「アメリカ合衆国の歴史 (1776-1789)」の記事における「憲法批准のための苦しみ」の解説
新憲法批准の推進派となったのは連邦主義者と呼ばれ、急速に国中の支持者を集めた。最も良く知られた連邦主義者としては、アレクサンダー・ハミルトン、ジェームズ・マディソンおよびジョン・ジェイだった。彼等3人は「パブリアス」という共通のペンネームを使ってニューヨークの新聞に掲載した85編からなる『ザ・フェデラリスト』を書いた。この文書は多くの点で生まれることになる新しいアメリカ合衆国のために影響力有るものになった。しかしこれらの文書は憲法制定会議の後で書かれており、批准に向けての戦いが特に激しかったニューヨーク邦における論議の一部となった。 強い政府の案に反対する者達は反連邦主義者という名前を採った。彼等は課税権のある政府ができれば、イギリスがほんの数十年前に経験したように専制的で腐敗したものになることを恐れた。最も著名な反連邦主義者はパトリック・ヘンリーとジョージ・メイソンだった。彼等は憲法案に権利章典が入っていないことも心配していた。彼等が書いた文書は集合的に反連邦主義文書と呼ばれている。 当時在フランスアメリカ合衆国大使を務めていたトーマス・ジェファーソンは連邦主義者でも反連邦主義者でもなかったが、中立に留まりどのような結果も受け入れることにしていた。しかし、フランスから友人でその後の同盟者であるジェームズ・マディソンに宛てた手紙の中で、憲法最終稿に関する懸念を表明していた。連邦主義者は憲法制定会議の議長を務めたジョージ・ワシントンが憲法案を承認したことで、大きな権威と利点を手に入れていた。 マディソンが権利章典に関して妥協案を提案したことでバージニア邦は憲法案を批准した。しかし、ニューヨーク邦はその政界を支配するクリントン家の者達が折れずに、ハミルトンの批准のための努力を妨げていた。憲法案に規定されるところでは、9つの邦が憲法案を批准したときに、連邦政府の各邦に対する指導権が動き始めるとされていた。事実上、1788年6月21日にニューハンプシャー邦が憲法案を批准したときに、アメリカ合衆国憲法は効力を発揮していた。これに6月25日にバージニア邦が加わり、7月26日にニューヨーク邦も批准して、11邦の批准が完了した。 ノースカロライナ邦の批准会議は批准を完了せずに休会にされた。この会議は反連邦主義者とジェファーソンの称賛者によって支配されており、連邦議会第1会期で憲法に特定の基本的権利を保証する修正を加える権利章典を採択するまで批准を保留することが決められた。 ロードアイランド邦は、連邦政府が1789年3月4月にその運営を始めるまで、批准会議そのものも開かなかった。 連合会議が最初の国政選挙に必要な手配を行い、ジョージ・ワシントンが初代大統領に、ジョン・アダムズが同副大統領に選出された。ニューヨーク市が初代の暫定首都に指定され、1789年4月、ワシントンはローワー・マンハッタンにあるフェデラル・ホールで就任宣誓を行った。 ジェームズ・マディソンの指導力の下に、連邦議会第1会期では連邦主義者が約束していた権利章典を含め12の憲法修正案が提案され、そのうち10が迅速に採択された。12の提案のうち、1つは批准に失敗し、1つは200年後の修正第27条として最後は批准された。連邦議会が権利章典を提案した後にノースカロライナ邦批准会議が再開され、憲法を批准した。ロードアイランド邦は1790年5月29日に憲法を批准し、権利章典は6月に入った次の州に批准された。
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