志穂美の抜擢
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1974年2月26日、岡田は東映香港支社からアンジェラ・マオの出演了承の連絡が入ると鈴木則文を呼び、「マオを主人公にし、京都(東映京都撮影所、以下、東映京都)時代に俺とお前で作った『緋牡丹博徒シリーズ』のカラテ版『女必殺拳』を作る。すぐに脚本の準備にかかれ」と指示。日本語が喋れないマオでも岡田は、この映画が売れると見込んでいた。これを聞いた鈴木は「緋牡丹のお竜にあやかって、役名は紅い竜、『紅竜』としましょう」と即座に返答した。彼らは東映京都で共に『緋牡丹博徒シリーズ』を製作した間柄であった。鈴木は岡田の指示で映画『聖獣学園』など「ポルノ路線」の製作を東映東京撮影所(以下、東映東京)でしていたが、興行は不入りに終わる。他にも3本企画を出すものの岡田に却下、特に梅宮辰夫主演『猛毒商売』はセットまで作っていた所で、岡田に「ゲキガは当たらん」と製作中止させられていた。家賃も払えず苦しい生活が続いたため、京都へ戻ろうとしていた矢先であった鈴木は、岡田の配慮に感涙し、シナリオを書き始めた。鈴木は東映の社員で基本的には人事権はないため、勝手に京都へ戻れないが、天尾完次と鈴木は、組合運動ばかりに熱心な東映東京の徹底的なテコ入れのために岡田が送り込んだ刺客だったため、京都へ帰ってもらっては困る事情があった。 数日のうちに共同脚本とプロデューサーが決まり、やがて「東映女カラテ新路線 香港女優で発進」と報道されると、鈴木は千葉真一に東映東京に庭でバッタリ会い、千葉から「アクション万能の少女がうち (JAC ) にいるから、今度の監督(鈴木)が撮るという映画に使ってください」と売り込まれる。千葉の部屋に連れて行かれ、千葉が持ってきた16mmフィルムを試写すると、トランポリンや器械体操に励む少女(志穂美悦子)が映っていた。「この子、本当に女の子?」とビックリし、志穂美の一挙一動に魅せられた鈴木は、「必ず日本側の出演者で重要な役としてシナリオに書く」と千葉へ約束する。志穂美には主役のアンジェラ・マオを空手を使って助ける準主役と伝えられたが、千葉は「何も香港から連れて来なくたって、志穂美を主役で使えばいいじゃないか」と不満を漏らしていたという。 何かしらの事情でアンジェラ・マオが不出演となり、鈴木は代役に志穂美を岡田へ推薦し志穂美の主役起用が決定した。カラテ映画の日本での人気は短命であったため、志穂美の芸能界入りが少しでもずれていたら、この抜擢はなく、志穂美の今日イメージは全く違ったものになっていた可能性が高く、間一髪のタイミングだった。後のインタビューで志穂美は「映画の主役をやることがどんなに大変で、凄いことかの重みを後になって感じたけど、当時は18歳ぐらいで、下積みもほとんどなく、自分の目指したことだったから、ただ嬉しくて最高ぐらいにしか思わなかった」、「日本で最初にアクション女優になるのは自分だと思っていた。なりたいじゃなかった、なる!だった。自分のやりたいことをやれる嬉しさで、寂しさなんて忘れていた。JACの厳しい訓練もそれに一役かった。『ボディガード牙』で初めて女優さん(渡辺やよい)の吹き替えをして、新宿東映のオールナイトで見たんです。私の立ち回りのシーンになったら客席がウォーッと沸いて、嬉しかった。あの感動が忘れられないために今までやってきたような気がする」などと話していた。
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