忍熊王との戦い
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新羅を討った翌年(摂政元年)2月、皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。そして畿内への帰途についた。しかし都には天皇の長男、次男である麛坂王、忍熊王がいた。彼らは誉田別尊の誕生を知り、皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。そこで播磨の赤石に父の山陵を作ると称して挙兵、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。そして菟餓野というところで「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。ところが突然現れた獰猛な赤い猪に麛坂王は食い殺されてしまった。凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。 忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。道中で天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった。忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した。 彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は 皇后軍を率いる武内宿禰や武振熊命は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。武内宿禰は逢坂山を超えて狭々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。逃げ場のなくなった忍熊王は五十狭茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。 いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な 忍熊王と五十狭茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、遺体は後日になって引き上げられた。同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。この年が摂政元年(若井敏明によると西暦368年に比定)である。摂政2年11月8日、天皇を河内国長野陵に葬った。摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都。摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝。笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。
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