忍熊王との戦いとは? わかりやすく解説

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忍熊王との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:13 UTC 版)

神功皇后」の記事における「忍熊王との戦い」の解説

新羅討った翌年摂政元年2月皇后群臣引き連れて穴門豊浦宮移り天皇の殯を行った。そして畿内への帰途についた。しかし都に天皇長男次男である麛坂王、忍熊王がいた。彼らは誉田別尊誕生知り皇后たちがこの赤子君主天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。そこで播磨赤石に父の山陵作る称して挙兵五十宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。そして菟餓野というところで「戦い勝てるならば良い捕れる」と誓約(うけい)の狩り行った。ところが突然現れ獰猛な赤いに麛坂王は食い殺されてしまった。凶兆理解した忍熊王住吉まで撤退した忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、一旦紀伊寄って誉田別尊預けて北上。しかし紀淡海峡突破できなかったため明石海峡回って務古水門到着道中天照大神稚日女尊事代主神住吉三神祀った後に進撃忍熊王はまた撤退して山背の菟道に陣を敷き、ここが決戦の場となった忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した彼方の あらら松原 松原渡り行き槻弓に まり矢をたぐへ 貴人まれびと)は 貴人どちや いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は 砂あれや いざ鬪はな 我は 皇后軍を率い武内宿禰武振熊命一計案じて偽りの和睦申し出た。兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせる武内宿禰は再び号令し、兵に替えの弦と剣を取り出させた。予備兵器など用意していなかった忍熊王敗走した武内宿禰逢坂山超えて狭々浪の栗林滋賀県大津市膳所)まで追撃した逃げ場なくなった忍熊王五十宿禰呼びよせ歌を詠んだ。 いざ吾君 五十宿禰 たまきはる 内の朝臣頭槌痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な 忍熊王五十宿禰は共に瀬田川入水し遺体後日になって引き上げられた。同年10月皇后群臣皇太后認められた。この年摂政元年若井敏明によると西暦368年比定)である。摂政2年11月8日天皇河内国長野陵に葬った摂政3年1月3日誉田別尊太子とし、磐余若桜宮遷都摂政13年2月太子武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神参拝。笥飯宮出発から始まった皇太后遠征事業はここに終わり酒宴催された。

※この「忍熊王との戦い」の解説は、「神功皇后」の解説の一部です。
「忍熊王との戦い」を含む「神功皇后」の記事については、「神功皇后」の概要を参照ください。

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