後期西北統治、国共内戦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 後期西北統治、国共内戦の意味・解説 

後期西北統治、国共内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 02:48 UTC 版)

朱紹良」の記事における「後期西北統治、国共内戦」の解説

1940年民国29年11月甘粛省政府主席地位谷正倫譲り第8戦区司令長官専任となる。翌1941年民国30年)、陝甘寧辺区総司令軍令部西安公庁主任兼任した1942年民国31年7月以降宋美齢と共に新疆省政府主席盛世才訪問し蒋介石からの共産党粛清要請勧告した翌月以降、盛はこれに応じて粛清開始している。ところが1944年民国33年)になると、ソビエト連邦第二次世界大戦での優勢見て、盛は国民党からの離反を図る。この動き察知した蒋・は、素早く軍を展開して盛の動き押さえつけた。そして自らウルムチ入りして盛に辞職勧告、盛もやむなくこれに応じている。 しかし日中戦争終結前後に、新疆省発生した三区革命への対応には朱紹良苦しみ鎮圧失敗終わった1946年民国35年4月第8戦区長官司令部廃止されは党軍事委員会副総参謀長兼弁公庁主任転じた翌年3月重慶行轅主任1948年重慶綏靖公署主任改組)に任ぜられ、国共内戦への物資動員取り組んでいる。 内戦末期1949年民国38年1月朱紹良福州綏靖公署主任福建省政府主席として中国人民解放軍迎撃当たったが、すでに大勢決しており、8月台湾へ逃亡福州陥落した台湾では総統府戦略顧問総統府国策顧問などを歴任した1963年民国52年12月25日台北市にて脳溢血により死去享年73(満72歳)。

※この「後期西北統治、国共内戦」の解説は、「朱紹良」の解説の一部です。
「後期西北統治、国共内戦」を含む「朱紹良」の記事については、「朱紹良」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「後期西北統治、国共内戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「後期西北統治、国共内戦」の関連用語

1
10% |||||

後期西北統治、国共内戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



後期西北統治、国共内戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの朱紹良 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS