後期西北統治、国共内戦
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1940年(民国29年)11月、甘粛省政府主席の地位を谷正倫に譲り、第8戦区司令長官専任となる。翌1941年(民国30年)、陝甘寧辺区総司令や軍令部西安弁公庁主任も兼任した。1942年(民国31年)7月以降、朱は宋美齢と共に新疆省政府主席盛世才を訪問し、蒋介石からの共産党粛清要請を勧告した。翌月以降、盛はこれに応じて粛清を開始している。ところが1944年(民国33年)になると、ソビエト連邦の第二次世界大戦での優勢を見て、盛は国民党からの離反を図る。この動きを察知した蒋・朱は、素早く軍を展開して盛の動きを押さえつけた。そして朱自らウルムチ入りして盛に辞職を勧告、盛もやむなくこれに応じている。 しかし日中戦争終結前後に、新疆省で発生した三区革命への対応には朱紹良は苦しみ、鎮圧も失敗に終わった。1946年(民国35年)4月、第8戦区長官司令部は廃止され、朱は党軍事委員会副総参謀長兼弁公庁主任に転じた。翌年3月、重慶行轅主任(1948年に重慶綏靖公署主任に改組)に任ぜられ、国共内戦への物資動員に取り組んでいる。 内戦末期の1949年(民国38年)1月、朱紹良は福州綏靖公署主任兼福建省政府主席として中国人民解放軍迎撃に当たったが、すでに大勢は決しており、8月に朱は台湾へ逃亡、福州も陥落した。台湾では総統府戦略顧問、総統府国策顧問などを歴任した。 1963年(民国52年)12月25日、台北市にて脳溢血により死去。享年73(満72歳)。
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