後期統治時代とは? わかりやすく解説

後期統治時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:54 UTC 版)

フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)」の記事における「後期統治時代」の解説

父王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世断片的な単語不定詞組み合わせ吐き捨てるように発し、公式のスピーチ一度も行わなかったが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は父王とは大きく違い説教じみた格調高い即位演説人々驚かせその後ことあるごとに熱弁ふるった。また自由主義理解者としてふるまい革命的な詩人ゲオルク・ヘルヴェーク会ったときには「予は気骨ある反抗愛しておる」などという言葉まで発している。 1847年開かれた議会は、父王が約束していた憲法制定要求したフリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこれを拒絶した。しかしこれを機に1848年3月革命1848年革命)が勃発しベルリンでは市民軍隊市街戦展開することになる。事態憂慮しフリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、軍隊市外への退去命じて憲法制定約束し国民議会解散した後の1848年12月8日プロイセン欽定憲法制定した。この憲法国民ではなく王によって制定されたものであったが、臣民としての言論集会の自由司法の独立、三級選挙など保障されており、1918年ドイツ革命によるヴィルヘルム2世退位まで効力保った。(ヴァイマル憲法1919年8月11日公布された) 1849年3月28日フランクフルト国民議会フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に「ドイツ皇帝」の称号贈ろうとしたが、王は帝位民衆ではなく諸侯協議によって決められるものと考えて戴冠拒否した1848年の革命鎮圧に功あって「榴弾王子」とあだ名された王弟ヴィルヘルム同様に反動的で、このころバーデン大公国民主化運動介入して多く自由主義者即決軍法会議処刑している。 晩年フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は、小ドイツ主義徹してドイツ連邦形成目指したが、オーストリアロシア干渉にあって不成功終わった。王は1857年以降何度脳卒中倒れて言語障害生じ加えて脳の損傷により精神障害きたしたため、エリーザベト王妃判断によって王弟ヴィルヘルム政務代行するようになったフリードリヒ・ヴィルヘルム4世1861年1月2日ベルリン崩御し王弟ヴィルヘルム1世が後を継いだ

※この「後期統治時代」の解説は、「フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)」の解説の一部です。
「後期統治時代」を含む「フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)」の記事については、「フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)」の概要を参照ください。

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