当事者たちの証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:42 UTC 版)
「マンハント (雑誌)」の記事における「当事者たちの証言」の解説
『マンハント』をめぐっては、自身が寄稿者だった人物や読者だったという人物からさまざまなコメントが発せられている。 『マンハント』がプロの文筆家としてのキャリアの振り出しだった小鷹信光は『マンハント』という雑誌を総括して次のように語っている。 〈マンハントとは何だったのか?〉とたずねられても、雑誌はモノじゃないんだから、言葉で説明することはできない。大資本をバックにした商業雑誌ならいざしらず、リトル・マガジンというのは生きている。だから、キザっぽくいえば、〈マンハント〉は雑誌というものじゃなく、一つの漠然としたフェノメノンだったのだ。編集者と翻訳者やコラムニストが徹底的にハメをはずし、こわいもの知らずに悪のりして、それに一万人か二万人の読者が加担して六年間をたのしくすごした一現象だったのだ。 — 小鷹信光、「『マンハント』がおもしろかった頃…」(『宝島』1978年9月号) また『マンハント』を中学生時代に読み始めたという荒俣宏は『マンハント』について「戦後カストリ雑誌の低俗さを引きずりつつも、めくるめくアングラ文化の胎動を予感させた、早すぎた雑誌だった」としつつ、次のように『マンハント』への思い入れを綴っている。 戦後の団塊世代が十四、五歳のなまいき盛りを迎え、そろそろ軽度の毒でも試してみるかというとき、ちょうどタイミングよく光り輝いたのが、愚生にとってはこの『マンハント』なのだった。中学三年から高校一年にかけて、思えば自分は大量の毒を呷らされた。というのも、この『マンハント』遭遇に前後して、もう一人の決定的アイドル澁澤龍彦を、愚生は発見してしまったからである。 高校以来、本好きを自他ともに認める同世代の人びととは、ずいぶん親交をもったけれど、愚生は澁澤体験か『マンハント』体験かのどちらかを経なかった人の青春を、信用しないことにしている。 — 荒俣宏、『稀書自慢 紙の極楽』(中央公論社) その荒俣と同学年だった鏡明も「今、思うと、マンハントはぼくにとって最も大事な雑誌であったように思う」としつつ、次のように独自の『マンハント』観を披露している。 ぼくという一人の読者の目からすると、マンハントは、ミステリー雑誌以上のものだった。 ぼくが、そこで読んだのは、アメリカの文化であり、言語であり、風俗であり、音楽であり、日常であった。それは、アメリカの大衆文化の教科書でさえあったように思う。 — 鏡明、「マンハントとその時代」(『フリースタイル』vol.3) 一方、稲葉明雄は「〈マンハント〉だけがどうということはない。たくさん手がけた仕事の母胎にはなったが、とくにこの雑誌に思いこみはない」。また片岡義男も「一冊の雑誌にすぎない。自分の方向づけとは関係なく適当にふざけさせてもらった。注文にこたえる練習をした感じ」と、いずれも仕事の場以上のものではなかったという認識を示している。なお、片岡義男も小鷹信光同様、『マンハント』がプロの文筆家としてのキャリアの振り出しで、早稲田大学の先輩でもある小鷹が片岡を編集部に売り込んだという。
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