建設前史
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1869年(明治2年)、発足したばかりの明治政府は北海道の資源開発のため、北海道開拓使という官庁を設置し、北海道の開拓・経営に乗り出した。開拓使では、アメリカ人技師ホーレス・ケプロンを招いて資源調査を行い、幌内川(三笠幌内川)上流の炭田(後の幌内炭鉱)が埋蔵量が多く、有望であると判明した。そこで、改めてアメリカ人技師ベンジャミン・スミス・ライマンを招いて、炭田の開発計画を立案させることとなった。 ケプロンは幌内 - 室蘭間に鉄道を敷設し、室蘭港からの石炭積み出しを計画したが、ライマンは幌内 - 幌向太(現在の幌向付近)間に鉄道を敷設し、そこから石狩川を利用した川舟により小樽港へ運び、そこで本船に積み替える計画とした。開拓使では、ライマンの計画のほうが経費がかからないことから、1878年(明治11年)3月にこの計画を承認し、翌年アメリカから鉄道技師ジョセフ・ユーリー・クロフォードを招いて、幌内 - 幌向太間の測量を開始した。 しかし、幌向太付近はヤチと呼ばれる湿地が多く、積替え設備の設置や駅夫の居住に適さないうえ、石狩川は冬季の結氷により舟運を利用できるのは年150日程度しかないことが判明し、クロフォードは再び計画を変更し、幌内太から小樽に鉄道を延長し、小樽港から石炭を積み出すよう提案した。これにより、年間を通じて鉄道による安定輸送が可能となり、桟橋の上に線路を敷設すれば、貨車から直接船積みができ、川舟への積替えの手間やその際の石炭の減耗も防げることから、開拓長官黒田清隆はこれを承認することとした。
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建設前史(1873-1929)
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鳥羽小学校は、1873年(明治6年)11月20日に鳥羽藩の藩校・尚志館を母体として開校した大里学校を起源としている。開校当初は寺院を校舎に充てていたが、1894年(明治27年)11月に新校舎が落成し、これをしばらく利用した。 しかし、経年劣化による校舎の老朽化と教室不足のため、時の鳥羽町は錦町(現・鳥羽三丁目)にあった校舎を全面改築し、校地も拡張することを計画した。ところが鳥羽町会は校地変更意見書が提出されるなどして紛糾し、町民からも負担が重すぎるとして反対署名や三重県への陳情などの運動が起こされた。こうした情勢で、鳥羽出身の御木本幸吉は鉄筋コンクリート校舎の建設を助言し、資金を提供したことから、町長の赤坂治郎吉の「英断」により、鳥羽城跡に新校舎を建設することが決定した。
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